雪国 川端康成
雪国
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り
出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色
はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」
「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」
「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するん
で、村も焚出しがいそがしかったよ。」
「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれ
ど。」
「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪
をひいてね。」
駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」
「いや。」
「駅長さんもうお帰りですの?」
「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」
「まあ。いけませんわ。」
和服に外套の駅長は寒い立話を切り上げたいらしく、もう後姿を見せながら、
「それじゃまあ大事にいらっしゃい。」
「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、
「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです。」
悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。
汽車が動きだしても、彼女は窓から胸を入れなかった。そうして線路の下を歩いている駅長に追いつくと、
「駅長さあん、今度の休みの日に家へお帰りって、弟に言ってやって下さあい。」
「はあい。」と、駅長が声を張りあげた。
葉子は窓をしめて、赤らんだ頬に両手をあてた。
ラッセルを三台備えて雪を待つ、国境の山であった。トンネルの南北から、電力による雪崩報知線が通じた。除雪
人夫延人員五千名に加えて消防組青年団の延人員二千名出動の手配がもう整っていた。
そのような、やがて雪に埋もれる鉄道信号所に、葉子という娘の弟がこの冬から勤めているのだと分ると、島村は
一層彼女に興味を強めた。
しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知る
はずはなかった。二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。病人相手ではつい男女の隔
てがゆるみ、まめまめしく世話すればするほど、夫婦じみて見えるものだ。実際また自分より年上の男をいたわる女
の幼い母ぶりは、遠目に夫婦とも思われよう。
島村は彼女一人だけを切り離して、その姿の感じから、自分勝手に娘だろうときめているだけのことだった。でもそ
れには、彼がその娘を不思議な見方であまりに見つめ過ぎた結果、彼自らの感傷が多分に加わってのことかもしれ
ない。
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、こ
れから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけ
てゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ
と、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女
の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたか
らのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車の
なかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れ
ているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。
娘の片眼だけは反って異様に美しかったものの、島村は顔を窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づ
くりして、掌でガラスをこすった。
娘は胸をこころもち傾けて、前に横たわった男を一心に見下していた。肩に力が入っているところから、少しいかつ
い眼も瞬きさえしないほどの真剣さのしるしだと知れた。男は窓の方を枕にして、娘の横へ折り曲げた足をあげてい
た。三等車である。島村の真横ではなく、一つ前の向側の座席だったから、横寝している男の顔は耳のあたりまでし
か鏡に写らなかった。
娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込ん
だ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えた
ものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。
鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。弱い体力が
弱いながらに甘い調和を漂わせていた。襟巻を枕に敷き、それを鼻の下にひっかけて口をぴったり覆い、それからま
た上になった頬を包んで、一種の頬かむりのような工合だが、ゆるんで来たり、鼻にかぶさって来たりする。男が目を
動かすか動かさぬうちに、娘はやさしい手つきで直してやっていた。見ている島村がいら立って来るほど幾度もその
同じことを、二人は無心に繰り返していた。また、男の足をつつんだ外套の裾が時々開いて垂れ下る。それも娘は直
ぐ気がついて直してやっていた。これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は
果しなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢
のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物
と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二
つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時
には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。
遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消
えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なに
ものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔
をそのなかに浮べていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も
透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのよう
に錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。
汽車のなかもさほど明るくはないし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。だから、島村は見入っ
ているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮んでいるように思われて来た。
そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかっ
た。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔
を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘
の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。
こんな風に見られていることを、葉子は気づくはずがなかった。彼女はただ病人に心を奪われていたが、たとえ島
村の方へ振り向いたところで、窓ガラスに写る自分の姿は見えず、窓の外を眺める男など目にも止まらなかっただろ
う。
島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえら
れていたからだったろう。
だから彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先きに立った
のかもしれない。
その信号所を通るころは、もう窓はただ闇であった。向うに風景の流れが消えると鏡の魅力も失われてしまった。葉
子の美しい顔はやはり写っていたけれども、その温かいしぐさにかかわらず、島村は彼女のうちになにか澄んだ冷た
さを新しく見つけて、鏡の曇って来るのを拭おうともしなかった。
ところがそれから半時間ばかり後に、思いがけなく葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにか起るかと
自分にかかわりがあるかのように振り返ったが、プラット・フォウムの寒さに触れると、急に汽車のなかの非礼が恥ず
かしくなって、後も見ずに機関車の前を渡った。
男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。
やがて闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。
宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。
待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。
島村は汽車のなかのぬくみがさめなくて、そとのほんとうの寒さをまだ感じなかったけれども、雪国の冬は初めてだ
から、土地の人のいでたちに先ずおびやかされた。
「そんな恰好をするほど寒いのかね。」
「へい、もうすっかり冬支度です。雪の後でお天気になる前の晩は、特別冷えます。今夜はこれでもう氷点を下ってお
りますでしょうね。」
「これが氷点以下かね。」と、島村は軒端の可愛い氷柱を眺めながら、宿の番頭と自動車に乗った。雪の色が家々の
低い屋根を一層低く見せて、村はしいんと底に沈んでいるようだった。
「なるほどなににさわっても冷たさがちがうよ。」
「去年は氷点下二十何度というのが一番でした。」
「雪は?」
「さあ、普通七八尺ですけれど、多い時は一丈を二三尺超えてますでしょうね。」
「これからだね。」
「これからですよ。この雪はこの間一尺ばかり降ったのが、だいぶ解けて来たところです。」
「解けることもあるのかね。」
「もういつ大雪になるか分りません。」
十二月の初めであった。
島村はしつっこい風邪心地でつまっていた鼻が、頭のしんまですっといちどきに通って、よごれものが洗い落される
ように、水洟がしきりと落ちて来た。
「お師匠さんとこの娘はまだいるかい。」
「へえ、おりますおります。駅におりましたが、御覧になりませんでしたか、濃い青のマントを着て。」
「あれがそうだったの? ――後で呼べるだろう。」
「今夜ですか。」
「今夜だ。」
「今の終列車でお師匠さんの息子が帰るとか言って、迎えに出ていましたよ。」
夕景色の鏡のなかで葉子にいたわられていた病人は、島村が会いに来た女の家の息子だったのだ。
そうと知ると、自分の胸のなかをなにかが通り過ぎたように感じたけれども、このめぐりあわせを、彼はさほど不思
議と思うことはなかった。不思議と思わぬ自分を不思議と思ったくらいのものであった。
指で覚えている女と眼にともし火をつけていた女との間に、なにがあるのかなにが起るのか、島村はなぜかそれが
心のどこかで見えるような気持もする。まだ夕景色の鏡から醒め切らぬせいだろうか。あの夕景色の流れは、さては
時の流れの象徴であったかと、彼はふとそんなことを呟いた。
スキイの季節前の温泉宿は最も客の少い時で、島村が内湯から上って来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊
下は彼の踏む度にガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲り角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上
へ拡げて、女が高く立っていた。
とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを
崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いで
行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、反って泣き面になったので、なにも
言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば
笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、
顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるの
で、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、
なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
「これが覚えていてくれたの?」
「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はす
ました顔で、
「ええ、分ってるわ。」
ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
「これが覚えていてくれたの?」
「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛初めてだ。」
「東京はまだ雪が降らないの?」
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来
るものか。」
あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入った頃だった。
あけびの新芽も間もなく食膳に見られなくなる。
無為徒食の島村は自然と自身に対する真面目さも失いがちなので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で
山歩きをするが、その夜も国境の山々から七日振りで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと言った。ところが、
その日は道路普請の落成祝いで、村の繭倉兼芝居小屋を宴会場に使ったほどの賑かさだから、十二三人の芸者で
は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、師匠の家の娘なら宴会を手伝いに行ったにしろ、踊を二つ三つ見せた
だけで帰るから、もしかしたら来てくれるかも知れないとのことだった。島村が聞き返すと、三味線と踊の師匠の家に
いる娘は芸者というわけではないが、大きい宴会などには時たま頼まれて行くこともある、半玉がなく、立って踊りた
がらない年増が多いから、娘は重宝がられている、宿屋の客の座敷へなど滅多に一人で出ないけれども、全くの素
人とも言えない、ざっとこんな風な女中の説明だった。
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住いを直した。
直ぐ立ち上って行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに坐らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た
自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
着つけにどこか芸者風なところがあったが、無論裾はひきずっていないし、やわらかい単衣をむしろきちんと着てい
る方であった。帯だけは不似合に高価なものらしく、それが反ってなにかいたましく見えた。
山の話などはじめたのをしおに、女中が立って行ったけれども、女はこの村から眺められる山々の名もろくに知ら
ず、島村は酒を飲む気にもなれないでいると、女はやはり生れはこの雪国、東京でお酌をしているうちに受け出され、
ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらうつもりでいたところ、一年半ばかりで旦那が死んだと、思いの外素
直に話した。しかしその人に死別れてから今日までのことが、恐らく彼女のほんとうの身の上話かもしれないが、そ
れは急に打ち明けそうもなかった。十九だと言った。嘘でないなら、この十九が二十一二に見えることに島村ははじ
めてくつろぎを見つけ出して、歌舞伎の話などしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう
話相手に飢えていてか、夢中でしゃべっているうち、根が花柳界出の女らしいうちとけようを示して来た。男の気心を
一通り知っているようでもあった。それにしても彼は頭から相手を素人ときめているし、一週間ばかり人間とろくに口
をきいたこともない後だから、人なつかしさが温かく溢れて、女に先ず友情のようなものを感じた。山の感傷が女の上
にまで尾をひいて来た。
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋へ遊びに寄った。
彼女が坐るか坐らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。
「世話するって?」
「分ってるじゃないか。」
「いやあねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の
山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、
「ここにはそんな人ありませんわよ。」
「嘘をつけ。」
「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。
ほんとうなのよ、これ。あなたが誰か呼んで直接話してごらんになるといいわ。」
「君から頼んでみてくれよ。」
「私がどうしてそんなことしなければならないの?」
「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」
「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、
「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」
「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持
で話が出来やしない。」
女は瞼を落して黙った。島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに、それを物分りよくうな
ずく習わしが女の身にしみているのだろう。その伏目は濃い睫毛のせいか、ほうっと温かく艶めくと島村が眺めてい
るうちに、女の顔はほんの少し左右に揺れて、また薄赤らんだ。
「お好きなのをお呼びなさい。」
「それを君に聞いてるんじゃないか。初めての土地だから、誰がきれいだか分らんさ。」
「きれいって言ったって。」
「若いのがいいね。若い方がなにかにつけてまちがいが少いだろう。うるさくしゃべらんのがいい。ぼんやりしていて、
よごれてないのが。しゃべりたい時は君としゃべるよ。」
「私はもう来ませんわ。」
「馬鹿言え。」
「あら。来ないわよ。なにしに来るの?」
「君とさっぱりつきあいたいから、君を口説かないんじゃないか。」
「あきれるわ。」
「そういうことがもしあったら、明日はもう君の顔を見るのもいやになるかもしれん。話に気乗りするなんてことがなくな
るよ。山から里へ出て来て、せっかく人なつっこいんだからね、君は口説かないんだ。だって、僕は旅行者じゃない
か。」
「ええ。ほんとうね。」
「そうだよ。君にしたって、君が厭だと思う女となら、後で会うのも胸が悪いだろうが、自分が選んでやった女ならまだ
ましだろう。」
「知らないっ。」と、強く投げつけてそっぽを向いたものの、
「それはそうだけれど。」
「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」
「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生れは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、
「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく
好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそう
らしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」
女は窓から立ち上ると、今度は窓の下の畳に柔かく坐った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身
辺に坐ったという顔になった。
女の声にあまり実感が溢れているので、島村は苦もなく女を騙したかと、反ってうしろめたいほどだった。
しかし彼は嘘を言ったわけではなかった。女はとにかく素人である。彼の女ほしさは、この女にそれを求めるまでも
なく、罪のない手軽さですむことだった。彼女は清潔過ぎた。一目見た時から、これと彼女とは別にしていた。
それに彼は夏の避暑地を選び迷っている時だったので、この温泉村へ家族づれで来ようかと思った。そうすれば女
はさいわい素人だから、細君にもいい遊び相手になってもらえて、退屈まぎれに踊の一つも習えるだろう。本気にそ
う考えていた。女に友情のようなものを感じたといっても、彼はその程度の浅瀬を渡っていたのだった。
無論ここにも島村の夕景色の鏡はあったであろう。今の身の上が曖昧な女の後腐れを嫌うばかりでなく、夕暮の汽
車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方をしていたのかもしれない。
彼の西洋舞踊趣味にしてもそうだった。島村は東京の下町育ちなので、子供の時から歌舞伎芝居になじんでいた
が、学生の頃は好みが踊や所作事に片寄って来て、そうなると一通りのことを究めぬと気のすまないたちゆえ、古い
記録を漁ったり、家元を訪ね歩いたりして、やがては日本踊の新人とも知り合い、研究や批評めいた文章まで書くよ
うになった。そうして日本踊の伝統の眠りにも新しい試みのひとりよがりにも、当然なまなましい不満を覚えて、もうこ
の上は自分が実際運動のなかへ身を投じて行くほかないという気持に狩り立てられ、日本踊の若手からも誘いかけ
られた時に、彼はふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまった。日本踊は全く見ぬようになった。その代りに西洋舞踊の書
物と写真を集め、ポスタアやプログラムの類まで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりで
は決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないというところにあった。
その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほ
ど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研
究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真
から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西
洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることも
あるのだった。
そういう彼の日本踊などの話が、女を彼に親しませる助けとなったのは、その知識が久し振りで現実に役立ったと
もいうべきありさまだったけれども、やはり島村は知らず識らずのうちに、女を西洋舞踊扱いにしていたのかもしれな
い。
だから、自分の淡い旅愁じみた言葉が、女の生活の急所に触れたらしいのを見ると、女を騙したかとうしろめたいぐ
らいだったが、
「そうしておけば、今度僕が家族を連れて来たって、君と気持よく遊べるさ。」
「ええ、そのことはもうよく分りましたわ。」と、女は声を沈めて微笑むと、少し芸者風にはしゃいで、
「私もそんなのが大好き、あっさりしたのが長続きするわ。」
「だから呼んでくれよ。」
「今?」
「うん。」
「驚きますわ。こんな真昼間になんにもおっしゃれないでしょう?」
「屑が残るといやだよ。」
「あんたそんなこと言うの、この土地を荒稼ぎの温泉場と考えちがいしてらっしゃるのよ。村の様子を見ただけでも分
らないかしら。」と、女はいかにも心外らしく真剣な口振りで、ここにはそういう女のいないことを繰り返して力説した。
島村が疑うと、女はむきになって、しかし一歩譲って、それはどうしようと芸者の勝手だけれども、ただ、うちへことわ
らずに泊れば芸者の責任で、どうなろうとかまってはくれないが、うちへことわっとけば抱主の責任で、どこまでも後を
見てくれる、それだけのちがいだと言う。
「責任てなんだ。」
「子供が出来たり、体が悪くなったりすることですわ。」
島村は自分の頓馬な質問に苦笑いしながら、そのようにのんきな話も、この山の村にはあるかも知れないと思った。
無為徒食の彼は自然と保護色を求める心があってか、旅先の土地の人気には本能的に敏感だが、山から下りて
来ると直ぐこの里のいかにもつましい眺めのうちに、のどかなものを受け取って、宿で聞いてみると、果してこの雪国
でも最も暮しの楽な村の一つだとのことだった。つい近年鉄道の通じるまでは、主に農家の人々の湯治場だったとい
う。芸者のいる家は料理屋とかしるこ屋とか色褪せた暖簾をかけているが、古風な障子のすすけたのを見ると、これ
で客があるのやら、そして日用雑貨の店や駄菓子屋にも、抱えをたった一人置いているのがあって、その主人達は
店のほかに田畑で働くらしかった。師匠の家の娘だからではあろうが、鑑札のない娘がたまに宴会などの手伝いに
出ても、咎め立てる芸者はないのだろう。
「それでどれくらいいるの。」
「芸者さん? 十二三人かしら。」
「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、
「私は帰りますわね?」
「君が帰っちゃ駄目だよ。」
「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、
「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」
しかし女中を見ると、なにげなく坐り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。
ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまっ
た。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方
を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。い
かにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま
うと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるう
ちに、電報為替の来ていたことを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。
なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。
ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駈け下りて来ると、足もとから黄蝶が二
羽飛び立った。
蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。
「どうなすったの。」
女が杉林の陰に立っていた。
「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」
「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、
「止めた。」
「そう?」
女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。
神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。
「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」
「ここの芸者って、みなあんなのかね。」
「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗
い青が映るようだった。
島村は杉の梢を見上げた。
「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」
その杉は岩にうしろ手を突いて胸まで反らないと目の届かぬ高さ、しかも実に一直線に幹が立ち並び、暗い葉が空
をふさいでいるので、しいんと静けさが鳴っていた。島村が背を寄せている幹は、なかでも最も年古りたものだったが、
どうしてか北側の枝だけが上まですっかり枯れて、その落ち残った根元は尖った杭を逆立ちに幹へ植え連ねたと見
え、なにか恐しい神の武器のようであった。
「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっ
かり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清
潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。
西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。
「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、
「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないんでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ
登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげ
たんですわ。」
そして彼の煙草を袂から出すとマッチをつけた。
「あの子に気の毒したよ。」
「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」
石の多い川の音が円い甘さで聞えて来るばかりだった。杉の間から向うの山襞の陰るのが見えた。
「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会った時心外じゃないか。」
「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が
二人の間に通っていた。
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭
になる一方女がよけい美しく見えて来た。杉林の陰で彼を呼んでからの女は、なにかすっと抜けたように涼しい姿
だった。
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめら
かで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはず
だが、そうではなく濡れ光っていた。目尻が上りも下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼はどこかおかしいような
がら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、
白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔
だった。
お酌に出たこともある女にしては、こころもち鳩胸だった。
「ほら、いつの間にかこんなに蚋が寄って来ましたわ。」と、女は裾を払って立ち上った。
このまま静けさのなかにいては、もう二人の顔が所在なげに白けて来るばかりだった。
そしてその夜の十時頃だったろうか。女が廊下から大声に島村の名を呼んで、ばたりと投げ込まれたように彼の部
屋へ入って来た。いきなり机に倒れかかると、その上のものを酔った手つきでつかみ散らして、ごくごく水を飲んだ。
この冬スキイ場でなじみになった男達が夕方山を越えて来たのに出会い、誘われるまま宿屋に寄ると、芸者を呼ん
で大騒ぎとなって、飲まされてしまったとのことだった。
頭をふらふらさせながら一人でとりとめなくしゃべり立ててから、
「悪いから行って来るわね。どうしたかと捜してるわ。後でまた来るわね。」と、よろけ出て行った。
一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたったり倒れたりして来るらしく、
「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
「ああ、見えない。島村さあん。」
それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった。島村は思いがけなかった。しかし宿屋中に響き
渡るにちがいない金切声だったから、当惑して立ち上ると、女は障子紙に指をつっこんで桟をつかみ、そのまま島村
の体へぐらりと倒れた。
「ああ、いたわね。」
女は彼ともつれて坐って、もたれかかった。
「酔ってやしないよ。ううん、酔ってるもんか。苦しい。苦しいだけなのよ。性根は確かだよ。ああっ、水飲みたい。ウイ
スキイとちゃんぽんに飲んだのがいけなかったの。あいつ頭へ来る、痛い。あの人達安壜を買って来たのよ。それ知
らないで。」などと言って、掌でしきりに顔をこすっていた。
外の雨の音が俄に激しくなった。
少しでも腕をゆるめると、女はぐたりとした。女の髪が彼の頬で押しつぶれるほどに首をかかえているので、手は懐
に入っていた。
彼がもとめる言葉には答えないで、女は両腕を閂のように組んでもとめられたものの上をおさえたが、酔いしびれ
て力が入らないのか、
「なんだ、こんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの。」と、いきなり自分の肘にかぶりついた。
彼が驚いて離させると、深い歯形がついていた。
しかし、女はもう彼の掌にまかせて、そのまま落書をはじめた。好きな人の名を書いて見せると言って、芝居や映画
の役者の名前を二三十も並べてから、今度は島村とばかり無数に書き続けた。
島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た。
「ああ、安心した。安心したよ。」と、彼はなごやかに言って、母のようなものさえ感じた。
女はまた急に苦しみ出して、身をもがいて立ち上ると、部屋の向うの隅に突っ伏した。
「いけない、いけない。帰る、帰る。」
「歩けるもんか。大雨だよ。」
「跣足で帰る。這って帰る。」
「危いよ。帰るなら送ってやるよ。」
宿は丘の上で、嶮しい坂がある。
「帯をゆるめるか、少し横になって、醒ましたらいいだろう。」
「そんなことだめ。こうすればいいの、慣れてる。」と、女はしゃんと坐って胸を張ったが、息が苦しくなるばかりだった。
窓をあけて吐こうとしても出なかった。身をもんで転りたいのを噛みこらえているありさまが続いて、時々意志を奮い
起すように、帰る帰ると繰り返しながら、いつか午前二時を過ぎた。
「あんたは寝なさい。さあ、寝なさいったら。」
「君はどうするんだ。」
「こうやってる。少し醒まして帰る。夜のあけないうちに帰る。」と、いざり寄って島村を引っぱった。
「私にかまわないで寝なさいってば。」
島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、
「起きなさい。ねえ、起きなさいったら。」
「どうしろって言うんだ。」
「やっぱり寝てなさい。」
「なにを言ってるんだ。」と、島村は立ち上った。
女を引き摺って行った。
やがて、顔をあちらに反向けこちらに隠していた女が、突然激しく脣を突き出した。
しかしその後でも、寧ろ苦痛を訴える譫言のように、
「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったじゃないの。」と、幾度繰り返したかしれなかった。
島村はその真剣な響きに打たれ、額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えている意志の強さには、味気なく白
けるほどで、女との約束を守ろうかとも思った。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃ
ないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
酔いで半ば痺れていた。
「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」などと
口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。
しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、ふと思い出して突き刺すように、
「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね。」
「笑ってやしない。」
「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ。」と、女はうつぶせになってむせび泣いた。
でも直ぐに泣き止むと、自分をあてがうように柔かくして、人なつっこくこまごまと身の上などを話し出した。酔いの
苦しさは忘れたように抜けたらしかった。今のことにはひとことも触れなかった。
「あら、お話に夢中になって、ちっとも知らなかったわ。」と、今度はぽうっと微笑んだ。
夜のあけないうちに帰らねばならないと言って、
「まだ暗いわね。この辺の人はそれは早起きなの。」と、幾度も立ち上って窓をあけてみた。
「まだ人の顔は見えませんわね。今朝は雨だから、誰も田へ出ないから。」
雨のなかに向うの山や麓の屋根の姿が浮び出してからも、女は立ち去りにくそうにしていたが、宿の人の起きる前
に髪を直すと、島村が玄関まで送ろうとするのも人目を恐れて、あわただしく逃げるように、一人で抜け出して行った。
そして島村はその日東京に帰ったのだった。
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来
るものか。後でも笑やしなかったよ。」
女がふっと顔を上げると、島村の掌に押しあてていた瞼から鼻の両側へかけて赤らんでいるのが、濃い白粉を透し
て見えた。それはこの雪国の夜の冷たさを思わせながら、髪の色の黒が強いために、温かいものに感じられた。
その顔は眩しげに含み笑いを浮べていたが、そうするうちにも「あの時」を思い出すのか、まるで島村の言葉が彼
女の体をだんだん染めて行くかのようだった。女はむっとしてうなだれると、襟をすかしているから、背なかの赤くなっ
ているのまで見え、なまなましく濡れた裸を剥き出したようであった。髪の色との配合のために、尚そう思われるのか
もしれない。前髪が細かく生えつまっているというのではないけれども、毛筋が男みたいに太くて、後れ毛一つなく、
なにか黒い鉱物の重ったいような光だった。
今さっき手に触れて、こんな冷たい髪の毛は初めてだとびっくりしたのは、寒気のせいではなく、こういう髪そのもの
のせいであったかと思えて、島村が眺め直していると、女は火燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか終らな
い。
「なにを勘定してるんだ。」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。
「五月の二十三日ね。」
「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ。」
「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ。」
「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね。」
「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
「日記? 日記をつけてるの?」
「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かし
いわ。」
「いつから。」
「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にならないでしょう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳
にね、定規をあてて、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細く削ったとみえて、線が綺麗に揃ってるんですの。そうして
帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっちり書いてあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末に
使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、この頃は巻紙へじかでしょう。」
「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい。」
「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。いつもお座敷から帰って、寝間着に着替えてつけたのね。遅く帰
るでしょう。ここまで書いて、中途で眠ってしまったなんて、今読んでも分るところがあるの。」
「そうかねえ。」
「だけど、毎日毎日ってんじゃなく、休む日もあるのよ。こんな山の中だし、お座敷へ出たって、きまりきってるでしょう。
今年は頁毎に日附の入ったのしか買えなくて、失敗したわ。書き出せばどうしても長くなることがあるもの。」
日記の話よりも尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、
そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。
「感想を書いとくんだね?」
「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのもので
すわ。」
「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか。」
「しようがありませんわ。」
「徒労だね。」
「そうですわ。」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。
全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは
女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だ
と叩きつけると、なにか反って彼女の存在が純粋に感じられるのであった。
この女の小説の話は、日常使われる文学という言葉とは縁がないもののように聞えた。婦人雑誌を交換して読むく
らいしか、この村の人との間にそういう友情はなく、後は全く孤立して読んでいるらしかった。選択もなく、さほどの理
解もなく、宿屋の客間などでも小説本や雑誌を見つける限り、借りて読むという風であるらしかったが、彼女が思い出
すままに挙げる新しい作家の名前など、島村の知らないのが少くなかった。しかし彼女の口振りは、まるで外国文学
の遠い話をしているようで、無慾な乞食に似た哀れな響きがあった。自分が洋書の写真や文字を頼りに、西洋の舞
踊を遥かに夢想しているのもこんなものであろうと、島村は思ってみた。
彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なので
あろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみと
なったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。
しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、
都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の
眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷
に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きした血色だった。
いずれにしろ、島村は彼女を見直したことにはなるので、相手が芸者というものになった今は反って言い出しにく
かった。
あの時彼女は泥酔していて、痺れて役に立たぬ腕を歯痒いがって、
「なんだこんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの。」と、肘に激しくかぶりついたほどであった。
足が立たないので、体をごろんごろん転がして、
「決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。」と言った言葉も思い出されて
来て、島村はためらっていると女は素早く気づいて撥ね返すように、
「零時の上りだわ。」と、ちょうどその時聞えた汽笛に立ち上って、思い切り乱暴に紙障子とガラス戸をあけ、手摺へ
体を投げつけざま窓に腰かけた。
冷気が部屋へいちどきに流れ込んだ。汽車の響きは遠ざかるにつれて、夜風のように聞えた。
「おい、寒いじゃないか。馬鹿。」と、島村も立ち上って行くと風はなかった。
一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、
見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群が目へ近づいて来る
につれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さ
がありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。
島村が近づくのを知ると、女は手摺に胸を突っ伏せた。それは弱々しさではなく、こういう夜を背景にして、これより
頑固なものはないという姿であった。島村はまたかと思った。
しかし、山々の色は黒いにかかわらず、どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた。そうすると山々が
透明で寂しいものであるかのように感じられて来た。空と山とは調和などしていない。
島村は女の咽仏のあたりを掴んで、
「風邪を引く。こんなに冷たい。」と、ぐいとうしろへ起そうとした。女は手摺にしがみつきながら声をつまらせて、
「私帰るわ。」
「帰れ。」
「もうしばらくこうさしといて。」
「それじゃ僕はお湯に入って来るよ。」
「いやよ。ここにいなさい。」
「窓をしめてくれ。」
「もうしばらくこうさしといて。」
村は鎮守の杉林の陰に半ば隠れているが、自動車で十分足らずの停車場の燈火は、寒さのためぴいんぴいんと
音を立てて毀れそうに瞬いていた。
女の頬も、窓のガラスも、自分のどてらの袖も、手に触るものは皆、島村にはこんな冷たさは初めてだと思われた。
足の下の畳までが冷えて来るので、一人で湯に行こうとすると、
「待って下さい。私も行きます。」と、今度は女が素直について来た。
彼の脱ぎ散らすものを女が乱れ籠に揃えているところへ、男の泊り客が入って来たが、島村の胸の前へすくんで顔
を隠した女に気がつくと、
「あっ、失礼しました。」
「いいえ、どうぞ。あっちの湯へ入りますから。」と、島村はとっさに言って、裸のまま乱れ籠を抱えて隣りの女湯の方
へ行った。女は無論夫婦面でついて来た。島村は黙って後も見ずに温泉へ飛び込んだ。安心して高笑いがこみ上げ
て来るので、湯口に口をあてて荒っぽく嗽いをした。
部屋に戻ってから、女は横にした首を軽く浮かして鬢を小指で持ち上げながら、
「悲しいわ。」と、ただひとこと言っただけであった。
女が黒い眼を半ば開いているのかと、近々のぞきこんでみると、それは睫毛であった。
神経質な女は一睡もしなかった。
固い女帯をしごく音で、島村は目が覚めたらしかった。
「早く起して悪かったわ。まだ暗いわね。ねえ、見て下さらない?」と、女は電燈を消した。
「私の顔が見える? 見えない?」
「見えないよ。まだ夜が明けないじゃないか。」
「嘘よ。よく見て下さらなければ駄目よ。どう?」と、女は窓を明け放して、
「いけないわ。見えるわね。私帰るわ。」
明け方の寒さに驚いて、島村が枕から頭を上げると、空はまだ夜の色なのに、山はもう朝であった。
「そう、大丈夫。今は農家が暇だから、こんなに早く出歩く人はないわ。でも山へ行く人があるかしら。」と、ひとりごと
を言いながら、女は結びかかった帯をひきずって歩き、
「今の五時の下りでお客がなかったわね。宿の人はまだまだ起きないわ。」
帯を結び終ってからも、女は立ったり坐ったり、そうしてまた窓の方ばかり見て歩き廻った。それは夜行動物が朝を
恐れて、いらいら歩き廻るような落ちつきのなさだった。妖しい野性がたかぶって来るさまであった。
そうするうちに部屋のなかまで明るんで来たか、女の赤い頬が目立って来た。島村は驚くばかりあざやかな赤い色
に見とれて、
「頬っぺたが真赤じゃないか、寒くて。」
「寒いんじゃないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽっぽして来るの。」と、枕もとの鏡台
に向って、
「とうとう明るくなってしまったわ。帰りますわ。」
島村はその方を見て、ひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な
頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。
もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫
光りの黒を強めた。
雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い
泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来
たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根
に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。
やがて年の暮から正月になれば、あの道が吹雪で見えなくなる。山袴にゴムの長靴、マントにくるまり、ヴェエルを
かぶって、お座敷へ通わねばならぬ。その頃の雪の深さは一丈もある。そう言って、丘の上の宿の窓から、女が夜明
け前に見下していた坂道を、島村は今下りて行くのであったけれども、道端に高く干した襁褓の下に、国境の山々が
見えて、その雪の輝きものどかであった。青い葱はまだ雪に埋もれてはいなかった。
田圃で村の子供がスキイに乗っていた。
街道の村へ入ると、静かな雨滴のような音が聞えていた。
軒端の小さい氷柱が可愛く光っていた。
屋根の雪を落す男を見上げて、
「ねえ、ついでにうちのも少し落してくれない?」と、湯帰りの女が眩しそうに濡れ手拭で額を拭いた。スキイ季節を目
指して早くも流れこんで来た女給であろう。隣家はガラス窓の色絵も古び、屋根のゆがんだカフエであった。
たいていの家の屋根は細かい板で葺いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日のあたる半面だけ雪の
なかに黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々
はまたその石の感じに似た姿で、低い屋並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。
子供の群が溝の氷を抱き起して来ては、道に投げて遊んでいた。脆く砕け飛ぶ際に光るのが面白いのだろう。日
光のなかに立っていると、その氷の厚さが嘘のように思われて、島村はしばらく眺め続けた。
十三四の女の子が一人石垣にもたれて、毛糸を編んでいた。山袴に高下駄を履いていたが、足袋はなく、赤らんだ
素足の裏に皸が見えた。傍の粗朶の束に乗せられて、三歳ばかりの女の子が無心に毛糸の玉を持っていた。小さ
い女の子から大きい女の子へ引っぱられる一筋の灰色の古毛糸も暖かく光っていた。
七八軒先きのスキイ製作所から鉋の音が聞える。その反対側の軒陰に芸者が五六人立話をしていた。今朝になっ
て宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと、やっぱり彼女は彼の歩いて来るのを見ていたらし
く、一人生真面目な顔つきであった。きっと真赤になるにきまっている、なにげない風を装ってくれるようにと、島村が
考える暇もなく、駒子はもう咽まで染めてしまった。それなら後向きになればいいのに、窮屈そうに眼を伏せながら、
しかも彼の歩みにつれで、その方へ少しずつ顔を動かして来る。
島村も頬が火照るようで、さっさと通り過ぎると、直ぐに駒子が追っかけて来た。
「困るわ、あんなとこお通りになっちゃ。」
「困るって、こっちこそ困るよ。あんなに勢揃いしてられると、恐ろしくて通れんね。いつもああかい。」
「そうね、おひる過ぎは。」
「顔を赤くしたり、ばたばた追っかけて来たりすれば、なお困るじゃないか。」
「かまやしない。」と、はっきり言いながら駒子はまた赤くなると、その場に立ち止まってしまって、道端の柿の木につ
かまった。
「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」
「君の家がここか。」
「ええ。」
「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」
「あれは焼いてから死ぬの。」
「だって君の家、病人があるんだろう。」
「あら。よく御存じね。」
「昨夜、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たん
だよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが附き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行っ
た人? 東京の人? まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」
「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。
「細君かね。」
しかしそれには答えないで、
「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」
島村は女のこういう鋭さを好まなかった。けれども女をこんな風に鋭くするわけは、島村にも駒子にもないはずだと
思われるので、それでは駒子の性格の現われかとも見られたが、とにかく繰り返して突っ込まれると、彼は急所にさ
わられたような気はして来るのであった。今朝山の雪を写した鏡のなかに駒子を見た時も、無論島村は夕暮の汽車
の窓ガラスに写っていた娘を思い出したのだったのに、なぜそれを駒子に話さなかったのだろうか。
「病人がいたっていいですわ。私の部屋へは誰も上って来ませんわ。」と、駒子は低い石垣のなかへ入った。
右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小
さい蓮池の氷は縁に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑らな
屋根は板が腐って軒に波を描いていた。
土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。
上の部屋もほんとうに屋根裏であった。
「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう。」
「これで、酔っ払って帰って、よく梯子を落ちないね。」
「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ。」と、駒子は火燵蒲団に手
を入れてみて、火を取りに立った。
島村は不思議な部屋のありさまを見廻した。低い明り窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は
新しく貼り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にも丹念に半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、
頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。壁の
向側はどうなってるのだろうと考えると、この部屋が宙に吊るさっているような気がして来て、なにか不安定であった。
しかし壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。
蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。
置火燵には山袴とおなじ木綿縞の蒲団がかかっていた。箪笥は古びているが、駒子の東京暮しの名残か、柾目の
みごとな桐だった。それと不似合に粗末な鏡台だった。朱塗の裁縫箱がまた贅沢なつやを見せていた。壁に板を
段々に打ちつけたのは、本箱なのであろう、めりんすのカアテンが垂らしてあった。
昨夜の座敷着が壁にかかって、襦袢の赤い裏を開いていた。
駒子は十能を持って、器用に梯子を上って来ると、
「病人の部屋からだけれど、火は綺麗だって言いますわ。」と、結いたての髪を伏せながら、火燵の灰を掻き起して、
病人は腸結核で、もう故郷へ死にに帰ったのだと話した。
故郷とはいえ、息子はここで生れたのではない。ここは母の村なのだ。母は港町で芸者を勤め上げた後も、踊の師
匠としてそこにとどまっていたが、まだ五十前で中風をわずらい、療養かたがたこの温泉へ帰って来た。息子は小さ
い時から機械が好きで、せっかく時計屋に入っていたから、港町に残して置いたところ、間もなく東京に出て、夜学に
通っていたらしい。体の無理が重なったのだろう。今年二十六という。
それだけを駒子は一気に話したけれども、息子を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にい
るのかというようなことには、やはり一言も触れなかった。
しかしそれだけでも、宙に吊るされたようなこの部屋の工合では、駒子の声が八方へ洩れそうで、島村は落ちつい
ていられなかった。
門口を出しなに、ほの白いものが眼について振り返ると、桐の三味線箱だった。実際よりも大きく長いものに感じら
れて、これを座敷へ担いで行くなんて嘘のような気がしていると、煤けた襖があいて、
「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないわ?」
澄み上って悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返って来そうであった。
島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。
「いいわ。」と、駒子が答えると、葉子は山袴でひょいと三味線を跨いだ。ガラスの溲瓶をさげていた。
駅長と知合いらしい昨夜の話振りでも、この山袴でも、葉子がここらあたりの娘なことは明らかだが、派手な帯が半
ば山袴の上に出ているので、山袴の蒲色と黒とのあらい木綿縞はあざやかに引き立ち、めりんすの長い袂も同じわ
けで艶めかしかった。山袴の股は膝の少し上で割れているから、ゆっくり膨らんで見え、しかも硬い木綿がひきしまっ
て見え、なにか安らかであった。
しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。
島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように
冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向うを
流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぽうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えた、その昨夜
の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮んだ、駒子の赤い頬も思い
出されて来る。
そうして足が早くなった。小肥りの白い足にかかわらず、登山を好む島村は山を眺めながら歩くと放心状態となって、
知らぬうちに足が早まる。いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工の
ものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった。
今出て来たばかりの駒子の部屋までが、もうその遠い世界のように思われる。そういう自分にさすが驚いて、坂を
登りつめると、女按摩が歩いていた。島村はなにかつかまえるように、
「按摩さん、揉んでもらえないかね。」
「そうですね。今何時ですかしら。」と、竹の杖を小脇に抱えると、右手で帯の間から蓋のある懐中時計を出して、左
の指先で文字盤をさぐりながら、
「二時三十五分過ぎでございますね。三時半に駅の向うへ行かんなりませんけれども、少し後れてもいいかな。」
「よく時計の時間が分るね。」
「はい、ガラスが取ってございますから。」
「さわると字が分るかね。」
「字は分りませんけれども。」と、女持ちには大きい銀時計をもう一度出して蓋をあけると、ここが十二時ここが六時、
その真中が三時という風に指で抑えて見せ、
「それから割り出して、一分までは分らなくても、二分とはまちがいません。」
「そうかね。坂道なんか辷らないかね。」
「雨が降れば娘が迎えに来てくれます。夜は村の人を揉むで、もうここへは登って来ません。亭主が出さないのだと、
宿の女中さんが言うからかないませんわ。」
「子供さんはもう大きいの?」
「はい。上の女は十三になります。」などと話しながら部屋に来て、しばらく黙って揉んでいたが、遠い座敷の三味線
の音に首を傾けた。
「誰かな。」
「君は三味線の音で、どの芸者か皆分るかい。」
「分る人もあります。分らんのもあります。旦那さん、ずいぶん結構なお身分で、柔かいお体でございますね。」
「凝ってないだろう。」
「凝って、首筋が凝っております。ちょうどよい工合に太ってらっしゃいますが、お酒は召し上りませんね。」
「よく分るな。」
「ちょうど旦那さまと同じような姿形のお客さまを、三人知っております。」
「至極平凡な体だがね。」
「なんでございますね、お酒を召し上らないと、ほんとうに面白いということがございませんね、なにもかも忘れてしま
う。」
「君の旦那さんは飲むんだね。」
「飲んで困ります。」
「誰だか下手な三味線だね。」
「はい。」
「君は弾くんだろう。」
「はい。九つの時から二十まで習いましたけれど、亭主を持ってから、もう十五年も鳴らしません。」
盲は年より若く見えるものであろうかと島村は思いながら、
「小さい時に稽古したのは確かだね。」
「手はすっかり按摩になってしまいましたけれど、耳はあいております。こうやって芸者衆の三味線を聞いてますと、
じれったくなったりして、はい、昔の自分のような気がするんでございましょうね。」と、また耳を傾けて、
「井筒屋のふみちゃんかしら。一番上手な子と一番下手な子は、一番よく分りますね。」
「上手な人もいるかい。」
「駒ちゃんという子は、年が若いけれど、この頃達者になりましたねえ。」
「ふうん。」
「旦那さん、御存じなんですね。そりゃ上手と言っても、こんな山ん中でのことですから。」
「いや知らないけれど、師匠の息子が帰るのと、昨夜同じ汽車でね。」
「おや、よくなって帰りましたか。」
「よくないようだったね。」
「はあ? あの息子さんが東京で長患いしたために、その駒子という子がこの夏芸者に出てまで、病院の金を送った
そうですが、どうしたんでしょう。」
「その駒子って?」
「でもまあ、尽すだけ尽しておけば、いいなずけだというだけでも、後々までねえ。」
「いいなずけって、ほんとうのことかね。」
「はい。いいなずけだそうでございますよ。私は知りませんが、そういう噂でございますね。」
温泉宿で女按摩から芸者の身の上を聞くとは、余りに月並で、反って思いがけないことであったが、駒子がいいな
ずけのために芸者に出たというのも、余りに月並な筋書で、島村は素直にのみこめぬ心地であった。それは道徳的
な思いに突き当ったせいかもしれなかった。
彼は話に深入りして聞きたく思いはじめたけはいで、按摩は黙ってしまった。
駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島
村の頭にはまた徒労という言葉が浮んで来た。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落してまで療養さ
せたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。
駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにか反って彼女の存在が純
粋に感じられて来るのだった。
この虚偽の痲痺には、破廉恥な危険が匂っていて、島村はじっとそれを味わいながら、按摩が帰ってからも寝転ん
でいると、胸の底まで冷えるように思われたが、気がつけば窓を明け放したままなのであった。
山峡は日陰となるのが早く、もう寒々と夕暮色が垂れていた。そのほの暗さのために、まだ西日が雪に照る遠くの
山々はすうっと近づいて来たようであった。
やがて山それぞれの遠近や高低につれて、さまざまの襞の陰を深めて行き、峰にだけ淡い日向を残す頃になると、
頂の雪の上は夕焼空であった。
村の川岸、スキイ場、社など、ところどころに散らばる杉木立が黒々と目立ち出した。
島村は虚しい切なさに曝されているところへ、温い明りのついたように駒子が入って来た。
スキイ客を迎える準備の相談会がこの宿にある。その後の宴会に呼ばれたと言った。火燵に入ると、いきなり島村
の頬を撫で廻しながら、
「今夜は白いわ。変だわ。」
そして揉みつぶすように柔かい頬の肉を掴んで、
「あんたは馬鹿だ。」
もう少し酔っているらしかったが、宴会を終えて来た時は、
「知らん。もう知らん。頭痛い。頭痛い。ああ、難儀だわ、難儀。」と、鏡台の前に崩れ折れると、おかしいほど一時に
酔いが顔へ出た。
「水飲みたい、水頂戴。」
顔を両手で抑えて、髪の毀れるのもかまわずに倒れていたが、やがて坐り直してクリイムで白粉を落すと、余りに
真赤な顔が剥き出しになったので、駒子も自分ながら楽しげに笑い続けた。面白いほど早く酒が醒めて来た。寒そう
に肩を顫わせた。
そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話しはじめた。
「気ちがいになるのかと心配だったわ。なにか一生懸命に思いつめてるんだけれど、なにを思いつめてるか、自分に
よく分らないの。怖いでしょう。ちっとも眠れないし、それでお座敷へ出た時だけしゃんとするのよ。いろんな夢を見た
わ。御飯もろくに食べられないものね。畳へね、縫針を突き刺したり抜いたり、そんなこといつまでもしてるのよ、暑い
日中にさ。」
「芸者に出たのは何月。」
「六月。もしかしたら私、今頃は浜松へ行ってたかしれないのよ。」
「世帯を持って?」
駒子はうなずいた。浜松の男に結婚してくれと追い廻されたが、どうしても男が好きになれないで、ずいぶん迷った
と言った。
「好きでないものを、なにも迷うことないじゃないか。」
「そうはいかないわ。」
「結婚て、そんな力があるかな。」
「いやらしい。そうじゃないけれど、私は身のまわりがきちんとかたづいてないと、いられないの。」
「うん。」
「あんた、いい加減な人ね。」
「だけど、その浜松の人となにかあったのかい。」
「あれば迷うことないじゃないの。」と、駒子は言い放って、
「でも、お前がこの土地にいる間は、誰とも結婚させない。どんなことしても邪魔してやるって言ったわよ。」
「浜松のような遠くにいてね。君はそんなことを気にしてるの。」
駒子はしばらく黙って、自分の体の温かさを味わうような風にじっと横たわっていたが、ふいとなにげなく、
「私妊娠していると思ってたのよ。ふふ、今考えるとおかしくって、ふふふ。」と、含み笑いしながら、くっと身をすくめる
と、両の握り拳で島村の襟を子供みたいに掴んだ。
閉じ合わした濃い睫毛がまた、黒い目を半ば開いているように見えた。
翌る朝、島村が目を覚ますと、駒子はもう火鉢へ片肘突いて古雑誌の裏に落書していたが、
「ねえ、帰れないわ。女中さんが火を入れに来て、みっともない、驚いて飛び起きたら、もう障子に日があたってるん
ですもの。昨夜酔ってたから、とろとろと眠っちゃったらしいわ。」
「幾時。」
「もう八時。」
「お湯へ行こうか。」と、島村は起き上った。
「いや、廊下で人に会うから。」と、まるでおとなしい女になってしまって、島村が湯から帰った時は、手拭を器用にか
ぶって、かいがいしく部屋の掃除をしていた。
机の足や火鉢の縁まで癇性に拭いて、灰を掻きならすのがもの馴れた様子であった。
島村が火燵へ足を入れたままごろ寝して煙草の灰を落すと、それを駒子はハンカチでそっと拭き取っては、灰皿を
もって来た。島村は朝らしく笑い出した。駒子も笑った。
「君が家を持ったら、亭主は叱られ通しだね。」
「なにも叱りゃしないじゃないの。洗濯するものまで、きちんと畳んでおくって、よく笑われるけれど、性分ね。」
「箪笥のなかを見れば、その女の性質が分るって言うよ。」
部屋いっぱいの朝日に温まって飯を食いながら、
「いいお天気。早く帰って、お稽古をすればよかったわ。こんな日は音がちがう。」
駒子は澄み深まった空を見上げた。
遠い山々は雪が煙ると見えるような柔かい乳色につつまれていた。
島村は按摩の言葉を思い合わせて、ここで稽古をすればいいと言うと、駒子は直ぐに立ち上って、着替えといっしょ
に長唄の本を届けるように家へ電話をかけた。
昼間見たあの家に電話があるのかと思うと、また島村の頭には葉子の眼が浮んで来て、
「あの娘さんが持って来るの?」
「そうかもしれないわ。」
「君はあの、息子さんのいいなずけだって?」
「あら。いつそんなことを聞いたの。」
「昨日。」
「おかしな人。聞いたら聞いたで、なぜ昨夜そう言わなかったの。」と、しかし今度は昨日の昼間とちがって、駒子は清
潔に微笑んでいた。
「君を軽蔑してなければ、言いにくいさ。」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い。」
「それ、僕が言い出せば、話をそらすじゃないか。」
「そらしゃしないわ。それで、あんたそれをほんとうにしたの?」
「ほんとうにした。」
「またあんた嘘言うわ。ほんとうにしないくせして。」
「そりゃ、のみこめない気はしたさ。だけど、君がいいなずけのために芸者になって、療養費を稼いでると言うんだか
らね。」
「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと。いいなずけは嘘よ。そう思ってる人が多いらしいわ。別に誰のために芸
者になったってわけじゃないけれど、するだけのことはしなければいけないわ。」
「謎みたいなことばかり言ってる。」
「はっきり言いますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。
心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も
薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。ただそれだけ。」
「幼馴染だね。」
「ええ、でも、別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた。一番古い日
記の一番初めに、そのことが書いてあるわ。」
「二人ともその港町にいたら、今頃は一緒になってたかもしれないね。」
「そんなことはないと思うわ。」
「そうかねえ。」
「人のこと心配しなくてもいいわよ。もうじき死ぬから。」
「それによそへ泊るのなんかよくないね。」
「あんた、そんなこと言うのがよくないのよ。私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」
島村は返す言葉がなかった。
しかし、駒子がやはり葉子のことに一言も触れないのは、なぜであろうか。
また葉子にしても、汽車の中でまで幼い母のように、我を忘れてあんなにいたわりながらつれて帰った男のなにか
である駒子のところへ、朝になって着替えを持って来るのは、どういう思いであろうか。
島村が彼らしく遠い空想をしていると、
「駒ちゃん、駒ちゃん。」と、低くても澄み通る、あの葉子の美しい呼び声が聞えた。
「はい、御苦労さま。」と、駒子は次の間の三畳へ立って行って、
「葉子さんが来てくれたの? まあ、こんなにみんな、重かったのに。」
葉子は黙って帰ったらしかった。
駒子は三の糸を指ではじき切って附け替えてから、調子を合わせた。その間にもう彼女の音の冴えは分ったが、火
燵の上に嵩張った風呂敷包を開いてみると、普通の稽古本の外に、杵家弥七の文化三味線譜が二十冊ばかり入っ
ていたので、島村は意外そうに手に取って、
「こんなもので稽古したの?」
「だって、ここにはお師匠さんがないんですもの。しかたがないわ。」
「うちにいるじゃないか。」
「中風ですわ。」
「中風だって、口で。」
「その口もきけなかったの。まだ踊は、動く方の左手で直せるけれど、三味線は耳がうるさくなるばっかり。」
「これで分るのかね。」
「よく分るわ。」
「素人ならとにかく芸者が、遠い山のなかで、殊勝な稽古をしてるんだから、音譜屋さんも喜ぶだろう。」
「お酌は踊が主だし、それからも東京で稽古させてもらったのは、踊だったの。三味線はほんの少しうろ覚えですもの、
忘れたらもう浚ってくれる人もなし、音譜が頼りですわ。」
「唄は?」
「いや、唄は。そう、踊の稽古の時に聞き馴れたのは、どうにかいいけれど、新しいのはラジオや、それからどこかで
聞き覚えて、でもどうだか分らないわ。我流が入ってて、きっとおかしいでしょう。それに馴染みの人の前では、声が
出ないの。知らない人だと、大きな声で歌えるけれど。」と、少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、
島村の顔を見つめた。
島村ははっと気押された。
彼は東京の下町育ちで、幼い時から歌舞伎や日本踊になじむうちに長唄の文句くらいは覚え、自ずと耳慣れてい
るが、自分で習いはしなかった。長唄といえば直ぐ踊の舞台が思い浮び、芸者の座敷を思い出さぬという風である。
「いやだわ。一番肩の張るお客さま。」と、駒子はちらっと下脣を噛んだが、三味線を膝に構えると、それでもう別の人
になるのか、素直に稽古本を開いて、
「この秋、譜で稽古したのね。」
勧進帳であった。
忽ち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、
三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれ
た、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨て
て浮ぶよりしかたがなかった。
十九や二十の田舎芸者の三味線なんか高が知れてるはずだ、お座敷だのにまるで舞台のように弾いてるじゃない
か、おれ自身の山の感傷に過ぎんなどと、島村は思ってみようとしたし、駒子はわざと文句を棒読みしたり、ここは
ゆっくり、面倒臭いと言って飛ばしたりしたが、だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴
えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。
勧進帳が終ると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。
「こんな日は音がちがう。」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場
の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々
まで真直ぐに響いて行った。
いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥
の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑
な曲を音譜で独習し、譜を離れて弾きこなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の
音に溢れ出るのであろう。
細かい手の器用なさばきは耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手な
のであろう。
三曲目に都鳥を弾きはじめた頃は、その曲の艶な柔らかさのせいもあって、島村はもう鳥肌立つような思いは消え、
温かく安らいで、駒子の顔を見つめた。そうするとしみじみ肉体の親しみが感じられた。
細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように
見えた。あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ
唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下り気味の眉の下
に、目尻が上りもせず下りもせず、わざと真直ぐ描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼なげだった。白粉はなく、都
会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、
首までほんのり血の色が上っていて、なによりも清潔だった。
しゃんと坐り構えているのだが、いつになく娘じみて見えた。
最後に、今稽古中のをと言って、譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙って撥を糸の下に挟むと、体を崩
した。
急に色気がこぼれて来た。
島村はなんとも言えなかったが、駒子も島村の批評を気にする風はさらになく、素直に楽しげだった。
「君はここの芸者の三味線を聞いただけで、誰だか皆分るかね。」
「そりゃ分りますわ、二十人足らずですもの。都々逸がよく分るわね、一番その人の癖が出るから。」
そしてまた三味線を拾い上げると、右足を折ったままずらせて、そのふくらはぎに三味線の胴を載せ、腰は左に崩
しながら、体は右に傾けて、
「小さい時こうして習ったわ。」と、棹を覗き込むと、
「く、ろ、かあ、みい、の……。」と、幼なげに歌って、ぽつんぽつん鳴らした。
「黒髪を最初に習ったの?」
「ううん。」と、駒子はその小さい時のように、かぶりを振った。
それからは泊まることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。
「駒子ちゃん。」と、尻上りに廊下の遠くから呼ぶ、宿の女の子を火燵へ抱き入れて余念なく遊んでは、正午近くにそ
の三つの子と湯殿へ行ったりした。
湯上りの髪に櫛を入れてやりながら、
「この子は芸者さえ見れば、駒子ちゃんって、尻上りに呼ぶの。写真でも、絵でも、日本髪だと、駒子ちゃん、だって。
私子供好きだから、よく分るんだわ。きみちゃん、駒子ちゃんの家へ遊びに行こうね。」と、立ち上ったが、また廊下の
籐椅子へのどかに落ちついて、
「東京のあわて者だわ。もう辷ってるわ。」
山麓のスキイ場を真横から南に見晴せる高みに、この部屋はあった。
島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑らなので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で
辷っていた。その段々の畑の畦は、まだ雪に隠れぬし、余り傾斜もないから一向たわいがなかった。
「学生らしいね。日曜かしら。あんなことで面白いかね。」
「でも、あれはいい姿勢で辷ってるんですわ。」と、駒子はひとりごとのように、
「スキイ場で芸者に挨拶されると、おや、君かいって、お客さんは驚くんですって。真黒に雪焼けしてるから分らない
の。夜はお化粧してるでしょう。」
「やっぱりスキイ服を着て。」
「山袴。ああ厭だ、厭だ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷るの止そうか
しら。さようなら。さあ、きみちゃん行こうよ。今夜は雪だわ。雪の降る前は冷えるんですよ。」
島村は駒子の立った後の籐椅子に坐っていると、スキイ場のはずれの坂道に、きみ子の手を引いて帰る駒子が見
えた。
雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰日向がまた刻々に変って行くのは、薄寒い
眺めであったが、やがてスキイ場もふうっと陰って来た。窓の下に眼を落すと、枯れた菊の籬には寒天のような霜柱
が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。
その夜は雪でなく、霰の後は雨になった。
帰る前の月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから島村はもう一度駒子を呼ぶと、十一時近くだのに彼女は散歩を
しようと言ってきかなかった。なにか荒々しく彼を火燵から抱き上げて、無理に連れ出した。
道は凍っていた。村は寒気の底へ寝静まっていた。駒子は裾をからげて帯に挟んだ。月はまるで青い氷のなかの
刃のように澄み出ていた。
「駅まで行くのよ。」
「気ちがい。往復一里もある。」
「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見に行くの。」
島村は肩から腿まで寒さに痺れた。
部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。
火燵蒲団はそのままに、つまり掛蒲団がそれと重なり、敷蒲団の裾が掘火燵の縁へ届くように、寝床が一つ敷いて
あるのだが、駒子は横から火燵にあたって、じっとうなだれていた。
「どうしたんだ。」
「帰るの。」
「馬鹿言え。」
「いいから、あんたお休みなさい。私はこうしてたいから。」
「どうして帰るんだ。」
「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ。」
「つまらん、意地悪するなよ。」
「意地悪なんかしないわ。意地悪なんかしやしないわ。」
「じゃあ。」
「ううん、難儀なの。」
「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない。」と、島村は笑い出して、
「どうもしやしないよ。」
「いや。」
「それに馬鹿だね、あんな乱暴に歩いて。」
「帰るの。」
「帰らなくてもいいよ。」
「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。」と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。
つらいとは、旅の人に深填りしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろ
うか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。
「もう帰んなさい。」
「実は明日帰ろうかと思っている。」
「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたように顔を起した。
「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか。」
ぼうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、
「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれったそうに立ち上って来て、いきなり島村の首に縋り
ついて取り乱しながら、
「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば。」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わし
さに体のことも忘れてしまった。
それから温かく潤んだ目を開くと、
「ほんとうに明日帰りなさいね。」と、静かに言って、髪の毛を拾った。
島村は次の日の午後三時で立つことにして、服に着替えている時に、宿の番頭が駒子をそっと廊下へ呼び出した。
そうね、十一時間くらいにしておいて頂戴と駒子の返事が聞えた。十六七時間は余り長過ぎると、番頭が思ってのこ
とかも知れない。
勘定書を見ると、朝の五時に帰ったのは五時まで、翌日の十二時に帰ったのは十二時まで、すべて時間勘定に
なっていた。
駒子はコオトに白い襟巻をして、駅まで見送って来た。
またたびの実の漬物やなめこの缶詰など、時間つぶしに土産物を買っても、まだ二十分も余っているので、駅前の
小高い広場を歩きながら、四方雪の山の狭い土地だなあと眺めていると、駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の
侘しさのために反ってみじめに見えた。
遠く川下の山腹に、どうしたのか一箇処、薄日の射したところがあった。
「僕が来てから、雪が大分消えたじゃないか。」
「でも二日降れば、直ぐ六尺は積るわ。それが続くと、あの電信柱の電燈が雪のなかになってしまうわ。あんたのこと
なんか考えて歩いてたら、電線に首をひっかけて怪我するわ。」
「そんなに積るの。」
「この先きの町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなか
へすぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。ね、あすこにもラッ
セルがいるわ。」
「雪見に来たいが正月は宿がこむだろうね。汽車は雪崩に埋れやしないか。」
「あんた贅沢な人ねえ。そういう暮しばかりしてるの?」と、駒子は島村の顔を見ていたが、
「どうして髭をお伸しにならないの。」
「うん。伸そうと思ってる。」と、青々と濃い剃刀のあとをなでながら、自分の口の端には一筋みごとな皺が通っていて、
柔かい頬をきりっと見せる、駒子もそのために買いかぶっているかもしれないと思ったが、
「君はなんだね、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だね。」
「気持の悪い烏が鳴いてる。どこで鳴いてる。寒いわ。」と、駒子は空を見上げて、両肘で胸脇を抑えた。
「待合室のストオヴにあたろうか。」
その時、街道から停車場へ折れる広い道を、あわただしく駈けて来るのは葉子の山袴だった。
「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と、葉子は息切れしながら、ちょうど恐ろしいものを逃れた子供が母親
に縋りつくみたいに、駒子の肩を掴んで、
「早く帰って、様子が変よ、早く。」
駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振っ
た。
「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ。」
島村は驚いて、
「見送りなんて、そんなものいいから。」
「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない。」
「来るよ、来るよ。」
葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、
「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる。」と、駒子を引っぱるのに、駒子
はじっとこらえていたが、急に振り払って、
「いやよ。」
その途端、二三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の
縁が湿って、頬が鳥肌立った。
葉子は呆然としゃっちょこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきは余りに真剣なので、怒っているのか、驚い
ているのか、悲しんでいるのか、それが現われず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。
その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を掴んで、
「ねえ、すみません。この人を帰して下さい。帰して下さい。」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。
「ええ、帰します。」と、島村は大きな声を出した。
「早く帰れよ、馬鹿。」
「あんた、なにを言うことあって。」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。
島村は駅前の自動車を指そうとすると、葉子に力いっぱい掴まれていた手先が痺れたけれども、
「あの車で、今直ぐ帰しますから、とにかくあんたは先きに行ってたらいいでしょう。ここでそんな、人が見ますよ。」
葉子はこくりとうなずくと、
「早くね、早くね。」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っている
と、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。
葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。
「どこへ行く。」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つけに行こうとするのを引き戻して、
「いや。私帰らないわよ。」
ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。
「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼
びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張ら
ないでさらりと水に流せ。」
「ちがう。あんた誤解しているわ。」
「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、そ
の人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りの頁に、君を書きに行くんだ。」
「いや、人の死ぬの見るなんか。」
それは冷たい薄情とも、余りに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、
「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう。」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、
「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あ
んた素直な人だと思うけれど。」
島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強
いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。
宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。
陰気な冬支度の土地の人が四五人、黙って乗り降りしただけであった。
「フォウムへは入らないわ。さよなら。」と、駒子は待合室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。そ
れは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れら
れたようであった。
汽車が動くと直ぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまっ
たが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際
の色であった。
国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてし
まったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間
から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。
流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで
伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである、その山の全き姿を淡い夕映の空がくっきりと濃
深縹色に描き出した。月は、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮
るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬
枯の車窓に暮れ残るものであった。
窓はスチイムの温気に曇りはじめ、外を流れる野のほの暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に
写るのだった。あの夕景色の鏡の戯れであった。東海道線などとは別の国の汽車のように使い古して色褪せた旧式
の客車が三四輛しか繋がっていないのだろう。電燈も暗い。
島村はなにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれて行くような放心状態に落ち
ると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。
それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだか
ら忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかって行く今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声で
あった。
ちょうど今頃は、行男が息を引き取ってしまっただろうか。なぜか頑固に帰らなかったが、そのために駒子は行男の
死目にもあえなかっただろうか。
乗客は不気味なほど少なかった。
五十過ぎの男と顔の赤い娘とが向い合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上った肩に黒い
襟巻を巻いて、娘は全く燃えるようにみごとな血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。
長い旅を行く二人のように見えた。
ところが、製糸工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李をおろして、それを窓からプ
ラット・フォウムへ落しながら、
「まあじゃあ、御縁でもってまたいっしょになろう。」と、娘に言い残して降りて行った。
島村はふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それで一入、女に別れての帰りだと思った。
偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。
蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけ
に細君が言った。来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六七匹も吸
いついていた。次の間の三畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。
窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まってい
た。檜皮色の小さい羽毛のような触角を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほど
ある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑は反って死
のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひ
らひらと揺れた。
生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木
の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上った。
よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。
山裾の川は杉の梢から流れ出るように見えた。
白萩らしい花が小高い山腹に咲き乱れて銀色に光っているのを、島村はまた飽きずに眺めた。
内湯から出て来ると、ロシア女の物売りが玄関に腰かけていた。こんな田舎まで来るのだろうかと、島村は見に
行った。ありふれた日本の化粧品や髪飾などだった。
もう四十を出ているらしく顔は小皺で垢じみていたが、太い首から覗けるあたりが真白に脂ぎっている。
「あんたどこから来ました。」と、島村が問うと、
「どこから来ました? 私、どこからですか。」と、ロシア女は答えに迷って、店をかたづけながら考える風だった。
不潔な布を巻いたようなスカアトは、最早洋装という感じも失せ、日本慣れたもので、大きい風呂敷包を背負って
帰って行った。それでも靴は履いていた。
いっしょに見送っていたおかみさんに誘われて、島村も帳場へ行くと、炉端に大柄の女が後向きに坐っていた。女
は裾を取って立ち上った。黒紋附を着ていた。
スキイ場の宣伝写真に、座敷着のまま木綿の山袴を穿きスキイに乗って、駒子と並んでいたので、島村も見覚え
のある芸者だった。ふっくりと押出しの大様な年増だった。
宿の主人は炉に金火箸を渡して、大きい小判型の饅頭を焼いていた。
「こんなもの、お一ついかがです。祝いものでございますから、お慰みに一口召上ってみたら。」
「今の人が引いたんですか。」
「はい。」
「いい芸者ですね。」
「年期があけて、挨拶廻りに来ましてな。よく売れた子でしたけれども。」
熱い饅頭を吹きなが島村が囓んでみると、固い皮は古びた匂いで少し酸っぱかった。
窓の外には、真赤に熟した柿の実に夕日があたって、その光は自在鍵の竹筒にまで射しこんで来るかと思われた。
「あんな長い、薄ですね。」と、島村は驚いて坂路を見た。背負って行く婆さんの身の丈の二倍もある。そして長い穂
だ。
「はい。あれは萱でございますよ。」
「萱ですか。萱ですか。」
「鉄道省の温泉展覧会の時に、休憩所ですか、茶室を造りまして、その屋根はここの萱で葺きましてな。なんでも東
京の方がその茶室をそっくりそのままお買いになったそうでございますよ。」
「萱ですか。」と、島村はもう一度ひとりごとのように呟いて、
「山に咲いているのは萱なんですね。萩の花かと思った。」
島村が汽車から降りて真先に目についたのは、この山の白い花だった。急斜面の山腹の頂上近く、一面に咲き乱
れて銀色に光っている。それは山に降りそそぐ秋の日光そのもののようで、ああと彼は感情を染められたのだった。
それを白萩と思ったのだった。
しかし近くに見る萱の猛々しさは、遠い山に仰ぐ感傷の花とはまるでちがっていた。大きい束はそれを背負う女達
の姿をすっかり隠して、坂路の両側の石崖にがさがさ鳴って行った。逞しい穂であった。
部屋へ戻ってみると、十燭燈のほの暗い次の間では、あの胴の太い蛾が黒塗りの衣桁に卵を産んで歩いていた。
軒端の蛾も装飾燈にばたばたぶっつかった。
虫は昼間から鳴きしきっていた。
駒子は少し後れて来た。
廊下に立ったまま、真向きに島村を見つめて、
「あんた、なにしに来た。こんなところへなんしに来た。」
「君に会いに来た。」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い。」
そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
「もう送って行くのはいやよ。なんともいえない気持だわ。」
「ああ、今度は黙って帰るよ。」
「いやよ。停車場へは行かないっていうことだわ。」
「あの人はどうなった。」
「無論死にました。」
「君が送りに来てくれた間にか。」
「でも、それとは別よ。送るって、あんなにいやなものとは思わなかったわ。」
「うん。」
「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないからい
い。」
二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓で雪を
踏み固め、その雪の板を二尺平方ぐらいに切り起し、それを積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方に高さ一
丈に余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄を貰い集めて来て、堂の前であかあかと焚火をする。この村の
正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供等は雪の堂の屋根に上って、押し合い揉み合い鳥追い
の歌を歌う。それから子供等は雪の堂に入って燈明をともし、そこで夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に
雪の堂の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。
ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村は鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。
「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日に帰って来たんだわ。もっと
ゆっくり看病して来ればよかった。」
「誰か病気。」
「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんです
わ。」
「よくなったの?」
「いいえ。」
「それは悪かったね。」と、島村は約束を守らなかったのを詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、
「ううん。」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、ハンカチで机を払いながら、
「ひどい虫。」
ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。
網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまって、澄み渡った月明りに浮んでいた。
「胃が痛い、胃が痛い。」と、駒子は両手を帯の間へぐっと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。
襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫がたちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなくな
るのもあった。
首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。二十一になったのだと、島村は思った。
彼の膝に生温い湿りけが通って来た。
「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、
帰って楽々寝ようと思ってると、ここからかかって来てるって言うんでしょう。大儀だからよっぽど止そうと思ったわ。昨
夜飲み過ぎた。ねえさんの送別会だったの。お帳場で笑ってばかりいて、あんただった。一年振りねえ。一年に一度
来る人なの?」
「あの饅頭を僕も食ったよ。」
「そう?」と、駒子は胸を起した。島村の膝に押しつけていたところだけが赤らんで、急に幼なじみた顔に見えた。
次の次の停車場の町まで、あの年増芸者を見送って来たのだと言った。
「つまらないわ。前はなんでも直ぐ纏まったけれど、だんだん個人主義になって銘々がばらばらなの。ここもずいぶん
変ったわ。気性の合わない人が殖えるばかりなの。菊勇ねえさんがいなくなると、私は寂しいんです。なんでもあの
人が中心だったから。売れることも一番で六百本を欠かすことはないから、うちでも大事にされてたんだけれど。」
その菊勇は年期があけて生れた町へ帰るというが、結婚するのか、なにか水商売を続けるのかと島村が問うと、
「ねえさんも可哀想な人なの。お嫁入りは前に一度失敗して、ここへ来たのよ。」と、駒子はその後を口籠って、とかく
ためらってから、月明りの段々畑の下を眺めて、
「あすこの坂の途中に、建ったばかりの家があるでしょう。」
「菊村って小料理屋?」
「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分の
ために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と
結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、
今更元の鞘におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよ
そで稼ぎ直すんですわ。考えると可哀想なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね。」
「男がね。五人もあったのかい。」
「そうね。」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。
「ねえさんも弱い人だったんだわ。弱虫だ。」
「しかたがないさ。」
「だってそうじゃないの。好かれたって、なんですか。」
うつ向いたまま簪で頭を掻いた。
「今日送って行って、せつなかったわ。」
「それでせっかくの店はどうしたの。」
「本妻が来てやってるわ。」
「本妻が来てやってるとは面白い。」
「だって、開業の支度もすっかり出来てたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供もみんなつれて、
本妻が移って来たわ。」
「うちはどうしたんだね。」
「お婆さんを一人残してあるんですって。百姓なんですけれど、主人がこんなこと好きなのね。それは面白い人。」
「道楽者だね。もういい年なんだろう。」
「若いのよ。三十二三かしら。」
「へええ。それじゃ本妻よりお妾さんの方が年上になるところだったね。」
「おない年の二十七ね。」
「菊村というのは、菊勇の菊だろう。それを本妻がやってるのかね。」
「一度出した看板を変えるわけにもいかないからでしょう。」
島村が襟を掻き合わせると、駒子は立って行って窓をしめながら、
「ねえさんはあんたのこともよく知ってた。いらしたわねって、今日も言ってくれた。」
「挨拶に来てたのを帳場で見かけたよ。」
「なんか言った。」
「言やしないよ。」
「あんた私の気持分る?」と、駒子は今しめたばかりの障子をさっとあけて、窓に体を投げつけるように腰かけた。島
村はしばらくしてから、
「星の光が東京とまるでちがうね。いかにも宙に浮いてるね。」
「月夜だからそうでもないわ。今年の雪はひどかったわ。」
「汽車が度々不通だったらしいね。」
「ええ、こわいくらい。自動車の通うのが、例年より一月も後れて、五月だったわ。スキイ場に売店があるでしょう、あ
の二階を雪崩が突き抜けて、下にいた人はそんなことを知らなくて、変な音がするから、台所で鼠が騒いだんだろう
と行ってみてなんともないから、二階へあがると雪だらけじゃないの。雨戸もなにも雪に持って行かれちゃってるのよ。
表層雪崩なんだけれど、それをラジオで大きく放送したものよ。恐ろしがってスキイ客が来やしないの。今年はもう乗
らないつもりで、去年の暮にスキイも人にくれちゃったのよ。それでも二三度辷ったかしら。私変ってない?」
「お師匠さんが死んで、どうしてたんだ。」
「ひとのことなんか、ほっときなさい。二月にはちゃんとここへ来て待ってたわ。」
「港へ帰ったんなら、そうと手紙をよこせばいいじゃないか。」
「いやよ。そんなみじめな、いやよ。奥さんに見られてもいいような手紙なんか書かないわ。みじめだわ。気兼ねして
嘘つくことないわ。」
駒子は早口に叩きつけるような激しさだった。島村はうなずいた。
「あんたそんな虫のなかに坐ってないで、電燈を消すといいわ。」
女の耳の凹凸もはっきり形をつくるほど月は明るかった。深く射しこんで畳が冷たく青むようであった。
駒子の脣は美しい蛭の輪のように滑らかであった。
「いや、帰して。」
「相変らずだね。」と、島村は首を反って、どこかおかしいようで少し中高な円顔を、真近に眺めた。
「十七でここへ来た時とちっとも変らないって、みんなそう言うわ。生活だって、それはおんなじなんですもの。」
北国の少女の頬の赤みがまだ濃く残っている。芸者風な肌理に月光が貝殻じみたつやを出した。
「でも、うちは変ったの御存じ?」
「お師匠さんが死んでね? もうあのお蚕さんの部屋にはいないんだね。今度のうちほんとうの置屋かい?」
「ほんとうの置屋って? そうね、店で駄菓子や煙草を売ってますわ。やっぱり私一人しかいないの。今度はほんとう
の奉公だから、夜晩くなると、蝋燭をともして本を読むわ。」
島村が肩を抱いて笑うと、
「メエトルだから、電気を無駄づかいしちゃ悪いわ。」
「そうかね。」
「でも、これが奉公かしらと思うことがあるくらい、うちの人はずいぶん大事にしてくれるのよ。子供が泣いたりすると、
おかみさんが遠慮して表へ負ぶって出て行くわ。なんの不足もないけれど、寝床の曲ってるのだけはいやね。帰りが
おそいと敷いといてくれるのよ。敷蒲団がきちんと重なってなかったり、敷布がゆがんでたりでしょう。そんなのを見る
と、情なくなって来るのよ。そうかって、自分で敷き直すのは悪いわ。親切がありがたいから。」
「君が家を持ったら苦労だね。」
「皆そう言うわ。性分ね。うちに小さい子供が四人あるから散らかって大変なのよ。私はそれを一日かたづけて歩い
てるわ。かたづける後から、どうせ散らかすのは分ってるんだけれど、気になってほっとけないんです。境遇の許す
範囲で、これでも私、きれいに暮したいとは思ってるんですよ。」
「そうだね。」
「あんた私の気持分る?」
「分るよ。」
「分るなら言ってごらんなさい。さあ、言ってごらんなさい。」と、駒子は突然思い迫った声で突っかかって来た。
「それごらんなさい。言えやしないじゃないの。嘘ばっかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りゃしな
い。」
そうして声を沈ますと、
「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
「そう君のように問いつめたって、はっきり言えるもんじゃない。」
「なにが言えないの。あんたそれがいけないのよ。」と、駒子はまだ術なげに声をつまらせたが、じっと目をつぶると
自分というものを島村がなんとなく感じていてくれるのだろうかと、それは分ったらしい素振りを見せて、
「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね。」
年期は四年だと言った。
「実家へ行く時は、また商売に出るなんて夢にも思わなくて、スキイも人にくれて行っちゃったのに、出来たことと言え
ば、煙草を止めただけだわ。」
「そうそう、前にはずいぶん吹かしてたね。」
「ええ。お座敷でお客さんのくれるのを、そっと袂へ入れるから、帰ると何本も出て来ることがあるわ。」
「四年はしかし長いね。」
「直ぐ経ってしまいますわ。」
「温い。」と、島村は駒子が近づいて来るままに抱き上げた。
「温いのは生れつきよ。」
「もう朝晩は寒くなっているんだね。」
「私がここへ来てから五年だもの。初めは心細くて、こんなところに住むのかと思ったわ。汽車の開通前は寂しかった
なあ。あんたが来はじめてからだって、もう三年だわ。」
その三年足らずの間に三度来たが、その度毎に駒子の境遇の変っていることを、島村は思っていた。
轡虫が急に幾匹も鳴き出した。
「いやねえ。」と、駒子は彼の膝から立ち上った。
北風が来て網戸の蛾が一斉に飛んだ。
黒い眼を薄く開いていると見えるのは濃い睫毛を閉じ合わせたのだと、島村はもう知っていながら、やはり近々との
ぞきこんでみた。
「煙草を止めて、太ったわ。」
腹の脂肪が厚くなっていた。
離れていてはとらえ難いものも、こうしてみると忽ちその親しみが還って来る。
駒子はそっと掌を胸へやって、
「片方が大きくなったの。」
「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり。」
「あら。いやだわ。嘘、いやな人。」と、駒子は急に変った。これであったと島村は思い出した。
「両方平均にって、今度からそう言え。」
「平均に? 平均にって言うの?」と、駒子は柔かに顔を寄せた。
この部屋は二階であるが、家のぐるりを蟇が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長いこ
と鳴いていた。
内湯から上って来ると、駒子は安心しきった静かな声でまた身上話をはじめた。
ここで初めての検査の時に、半玉の頃と同じだと思って、胸だけ脱ぐと笑われたこと、それから泣き出してしまった
こと、そんなことまで言った。島村に問われるままに、
「私は実に正確なの、二日ずつきちんと早くなって行くの。」
「だけどさ、お座敷へ出るのに困るというようなことはないだろう。」
「ええ、そんなこと分るの?」
温まるので名高い温泉に毎日入っているし、旧温泉と新温泉との間をお座敷通いすれば一里も歩くわけになるし、
夜更しも少ない山暮しだから、健康な固太りだけれども、芸者などにありがちの少うし腰窄まりだった。横に狭くて縦
に厚い。そのくせ島村が遠く惹かれて来るような女であることなのは、哀れ深いものがあった。
「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と、駒子は生真面目にたずねた。一人の人とつきあってれば、夫婦と
おなじではないかと言うのだった。
駒子にそういう人のあるのを島村は初めて知った。十七の年から五年続いていると言う。島村が前から訝しく思っ
ていた、駒子の無知で無警戒なのはそれで分った。
半玉で受け出してくれた人に死に別れて、港へ帰ると直ぐにその話があったためか、駒子は初めから今日までその
人が厭で、いつまでも打ちとけられないと言う。
「五年も続けば、上等の方じゃないか。」
「別れる機会は二度もあったのよ。ここで芸者に出る時と、お師匠さんのうちから今のうちへ変る時と。でも、意志が
弱いんだわ。ほんとうに意志が弱いんだわ。」
その人は港にいると言う。その町に置くのは都合が悪いので、師匠がこの村へ来るついでに預けてよこしたのだと
言う。親切な人だのに、一度も生き身をゆるす気になれないのは、悲しいと言う。年がちがうので、たまにしか来ない
と言う。
「どうしたら切れるか、よっぽど不行跡を働こうと時々思うのよ。ほんとうに思うんですよ。」
「不行跡はよくない。」
「不行跡は出来ない。やっぱり性分でだめだわ。私は自分の生きてる体が可愛いわ。しようとおもえば、四年の年期
が二年になるんだけれど、無理をしないの。体が大事だから。無理すれば、ずいぶん線香が出るだろうな。年期だか
ら、主人に損をかけなければいいのよ。元金が月に割って幾ら、利子が幾ら、税金が幾ら、それに自分の食い扶持
を勘定に入れて、分ってるでしょう。それ以上あまり無理して働くこともないわ。面倒臭い座敷でいやなら、さっさと
帰っちまうし、おなじみの名指しでなければ、宿でも夜おそくかけてよこさないわ。自分で贅沢する分にはきりがない
けれども、気随に稼いでいて、それですむんですもの。もう元金を半分以上返したわ。まだ一年にならないわ。それで
もお小遣がなにやかやと月三十円はかかるわね。」
月に百円稼げばいいのだと言った。先月一番少い人で三百本の六十円だと言った。駒子は座敷数が九十幾つで
一番多く、一座敷で一本が自分の貰いになるので、主人には損だが、どんどん廻るのだと言った。借金を殖やして年
期の延びた人は、この温泉場には一人もないと言った。
翌る朝、駒子はやはり早くて、
「お花のお師匠さんとこのお部屋を掃除している夢を見て、目が覚めちゃったの。」
窓際へ持ち出した鏡台には紅葉の山が写っていた。鏡のなかにも秋の日ざしが明るかった。
駄菓子屋の女の子が駒子の着替えを持って来た。
「駒ちゃん。」と、悲しいほど澄み通る声で襖の陰から呼ぶ、あの葉子ではなかった。
「あの娘さんはどうした。」
駒子はちらっと島村を見て、
「お墓参りばかりしてるわ。スキイ場の裾にほら、蕎麦の畑があるでしょう、白い花の咲いてる。その左に墓が見える
じゃないの?」
駒子が帰ってから島村も村へ散歩に行ってみた。
白壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いて、女の子がゴム鞠を突いているのは、実に秋であった。
大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしか
なくて長細い。軒端に萱の簾を垂れている。
土坡の上に糸薄を植えた垣があった。糸薄は桑染色の花盛りであった。その細い葉が一株ずつ美しく噴水のよう
な形に拡がっていた。
そうして道端の日向に藁莚を敷いて小豆を打っているのは葉子だった。
乾いた豆幹から小豆が小粒の光のように躍り出る。
手拭をかぶっているので島村が見えないのか、葉子は山袴の膝頭を開いて小豆を叩きながら、あの悲しいほど澄
み通って木魂しそうな声で歌っていた。
蝶々とんぼやきりぎりす
お山でさえずる
松虫鈴虫くつわ虫
杉の樹をつと離れた、夕風のなかの烏が大きい、という歌があるが、この窓から見下す杉林の前には、今日も蜻蛉
の群が流れている。夕が近づくにつれ、彼等の遊泳はあわただしく速力を早めて来るようだった。
島村は出発の前に駅の売店でここらあたりの山案内書の新刊を見つけて買って来た。それをとりとめなく読んでい
ると、この部屋から見晴らす国境の山々、その一つの頂近くは、美しい池沼を縫う小路で、一帯の湿地にいろんな高
山植物が花咲き乱れ、夏ならば無心に赤蜻蛉が飛び、帽子や人の手や、また時には眼鏡の縁にさえとまるのどかさ、
都会の蜻蛉とは雲泥の差であると書いてあった。
しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にそ
の姿を消されまいとあせっているもののように見える。
遠い山は西日を受けると、峰から紅葉して来ているのがはっきり分った。
「人間なんて脆いもんね。頭から骨まで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。熊なんか、もっと高い岩棚か
ら落ちたって、体はちっとも傷がつかないそうよ。」と、今朝駒子が言ったのを島村は思い出した。岩場でまた遭難が
あったという、その山を指ざしながらであった。
熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮
膚を愛し合っているのだ。そんなことを思って夕日の山を眺めていると島村は感傷的に人肌がなつかしくなって来た。
「蝶々とんぼやきりぎりす……。」というあの歌を、早い夕飯時に下手な三味線で歌っている芸者があった。
山の案内書には、登路、日程、宿泊所、費用などが、簡単に書いてあるだけで、反って空想を自由にしたし、島村
が初めて駒子を知ったのも、残雪の肌に新緑の萌える山を歩いて、この温泉村へ下りて来た時のことだったし、自分
の足跡も残っている山を、こうして眺めていると、今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘われて行くのだった。
無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた
非現実的な魅力もあった。
遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、
今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられ
るのだった。昨夜駒子が泊って行ったばかりだからでもあろう。しかし静かななかに一人坐っていては、呼ばなくても
駒子も来そうなものだと、心待ちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生達の若々しく騒ぐ声が聞えている
うちに眠ろうと思って、島村は早くから寝た。
やがて時雨が通るらしかった。
翌る朝目をあくと、駒子が机の前にきちんと坐って本を読んでいた。羽織も銘仙の不断着だった。
「目が覚めた?」と、彼女は静かに言って、こちらを見た。
「どうしたんだい。」
「目が覚めた?」
知らぬ間に来て泊っていたのかと疑って、島村が自分の寝床を見廻しながら、枕もとの時計を拾うと、まだ六時半
だった。
「早いんだね。」
「だって、女中さんがもう火を入れに来たわよ。」
鉄瓶は朝らしい湯気を立てていた。
「起きなさいよ。」と、駒子は立って来て、彼の枕もとに坐った。ひどく家庭の女めいた素振りであった。島村は伸びを
したついでに、女の膝の上の手をつかんで小さい指の撥胼胝を弄びながら、
「眠いよ。夜があけたばかりじゃないか。」
「一人でよく眠れた?」
「ああ。」
「あんた、やっぱり髭をお伸しにならなかったのね。」
「そうそう、この前別れる時、そんなこと言ってたね、髭を生やせって。」
「どうせ忘れてたって、いいわよ。いつも青々ときれいに剃ってらっしゃるのね。」
「君だって、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だよ。」
「頬っぺたが、またお太りになったんじゃないかしら。色が白くて、眠ってらっしゃるところは髭がないと変だわ。円い
わ。」
「柔和でいいだろう。」
「頼りないわ。」
「いやだね。じろじろ見てたんだね。」
「そう。」と、駒子はにっこりうなずいてその微笑から急に火がついたように笑い出すと、知らず識らず彼の指を握る手
にまで力が入って、
「押入に、隠れたのよ。女中さんちっとも気がつかないで。」
「いつさ。いつから隠れてたんだ。」
「今じゃないの? 女中さんが火を持って来た時よ。」
そして思い出し笑いが止まらぬ風だったが、ふと耳の根まで赤らめると、それを紛らわすように掛蒲団の端を持って
煽ぎながら、
「起きなさい。起きて頂戴。」
「寒いよ。」と、島村は蒲団を抱えこんで、
「宿じゃもう起きてるのかい。」
「知らないわ。裏から上って来たのよ。」
「裏から?」
「杉林のところから掻き登って来たのよ。」
「そんな路があるの?」
「路はないけれど、近いわ。」
島村は驚いて駒子を見た。
「私が来たのを誰も知らないわ。お勝手に音がしてたけれど、玄関はまだしまってるんでしょう。」
「君はまた早起きなんだね。」
「昨夜眠れなかったのよ。」
「時雨があったの知ってる?」
「そう? あすこの熊笹が濡れてたの、それでなのね。帰るわね。もう一寝入り、お休みなさいね。」
「起きるよ。」と、島村は女の手を握ったまま、勢いよく寝床を出た。そのまま窓へ行って、女が掻き登って来たという
あたりを見下すと、潅木類の茂りの裾に熊笹が猛々しく拡がっていた。それは杉林に続く丘の中腹で、窓の直ぐ下の
畑には、大根、薩摩芋、葱、里芋など、平凡な野菜ながら朝の日を受けて、それぞれの葉の色のちがいが初めて見
るような気持であった。
湯殿へ行く廊下から、番頭が泉水の緋鯉に餌を投げていた。
「寒くなったとみえて、食いが悪くなりました。」と、番頭は島村に言って、蚕の蛹を干し砕いた餌が水に浮んでいるの
を、しばらく眺めていた。
駒子は清潔に坐っていて、湯から上って来た島村に、
「こんな静かなところで、裁縫してたら。」
部屋は掃除したばかりで、少し古びた畳に秋の朝日が深く差しこんでいた。
「裁縫が出来るのか。」
「失礼ね。きょうだいじゅうで、一番苦労したわ。考えてみると、私の大きくなる頃が、ちょうどうちの苦しい時だったらし
いわ。」と、ひとりごとのようだったが、急に声をはずませて、
「駒ちゃんいつ来たって、女中さんが変な顔してたわ。二度も三度も押入に隠れることは出来ないし、困っちゃった。
帰るわね。いそがしいのよ。眠れなかったから、髪を洗おうと思ったの。朝早く洗っとかないと、乾くのを待って、髪結
いさんへ行って、昼の宴会の間に合わないのよ。ここにも宴会があるけれど、昨夜になってしらせてよこすんだもの。
よそを受けちゃった後で、来られやしない。土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来られないわ。」
そんなことを言いながら、しかし駒子は立ち上りそうもなかった。
髪を洗うのは止めにして、島村を裏庭へ誘い出した。さっきそこから忍んで来たのか、渡廊下の下に駒子の濡れた
下駄と足袋があった。
彼女が掻き登ったという熊笹は通れそうもないので、畑沿いに水音の方へ下りて行くと、川岸は深い崖になってい
て、栗の木の上から子供の声が聞えた。足もとの草のなかにも毬が幾つも落ちていた。駒子は下駄で踏みにじって、
実を剥き出した。みんな小粒の栗だった。
向岸の急傾斜の山腹には萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋
空を飛んでいる透明な儚さのようであった。
「あすこへ行ってみようか、君のいいなずけの墓が見える。」
駒子はすっと伸び上って島村をまともに見ると、一握りの栗をいきなり彼の顔に投げつけて、
「あんた私を馬鹿にしてんのね。」
島村は避ける間もなかった。額に音がして、痛かった。
「なんの因縁があって、あんた墓を見物するのよ。」
「なにをそう向きになるんだ。」
「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持で生きてる人とちがうわ。」
「誰が贅沢な気持で生きてるもんか。」と、彼は力なく呟いた。
「じゃあ、なぜいいなずけなんて言うの? いいなずけでないってことは、この前よく話したじゃないの? 忘れてんの
ね。」
島村は忘れていたわけではない。
「お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのこと
で、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけ
ど、二人は別になんでもなかった。別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送っ
てくれた。」
駒子がそう言ったのを覚えている。
その男が危篤だというのに、彼女は島村のところへ泊って、
「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」と、身を投げ出すように言ったこともあった。
まして、駒子がちょうど島村を駅へ見送っていた時に、病人の様子が変ったと、葉子が迎えに来たにかかわらず、
駒子は断じて帰らなかったために、死目にも会えなかったらしいということもあったので、尚更島村はその行男という
男が心に残っていた。
駒子はいつも行男の話を避けたがる。いいなずけではなかったにしても、彼の療養費を稼ぐために、ここで芸者に
出たというのだから、「真面目なこと」だったにちがいない。
栗をぶっつけられても、腹を立てる風がないので、駒子は束の間訝しそうであったが、ふいと折れ崩れるように縋っ
て来て、
「ねえ、あんた素直な人ね。なにか悲しいんでしょう。」
「木の上で子供が見てるよ。」
「分らないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」
「なにもかも散っちゃってるよ。」
「今に命まで散らすわよ。墓を見に行きましょうか。」
「そうだね。」
「それごらんなさい。墓なんかちっとも見たくないんじゃないの?」
「君の方でこだわってるだけだよ。」
「私は一度も参ったことがないから、こだわるのよ、ほんとうよ、一度も。今はお師匠さんもいっしょに埋まってるんで
すから、お師匠さんにはすまないと思うけれど、今更参れやしない。そんなことしらじらしいわ。」
「君の方がよっぱど複雑だね。」
「どうして? 生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ。」
静けさが冷たい滴となって落ちそうな杉林を抜けて、スキイ場の裾を線路伝いに行くと、直ぐに墓場だった。田の畦
の小高い一角に、古びた石碑が十ばかりと地蔵が立っているだけだった。貧しげな裸だった。花はなかった。
しかし、地蔵の裏の低い木蔭から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、
刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止まった。
「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……。」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされた
ように、彼女も島村も身を竦めた。
貨物列車が真近を通ったのだ。
「姉さあん。」と呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨車の扉から、少年が帽子を振っていた。
「佐一郎う、佐一郎う。」と、葉子が呼んだ。
雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞えもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。
貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮かに見えた。赤い茎の上に咲き揃っ
て実に静かであった。
思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨
物列車が吹き払って行ってしまった。
そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。
葉子は汽車を見送って、
「弟が乗っていたから、駅へ行ってみようかしら。」
「だって、汽車は駅に待ってやしないわ。」と、駒子が笑った。
「そうね。」
「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ。」
葉子はうなずいて、ちょっとためらっていたが、墓の前にしゃがんで手を合わせた。
駒子は突っ立ったままであった。
島村は目をそらして地蔵を見た。長い顔の三面で、胸で合掌した一組の腕のほかに、右と左に二本ずつの手が
あった。
「髪を結うのよ。」と、駒子は葉子に言って、畦路を村の方へ行った。
土地の言葉でハッテという、樹木の幹から幹へ、竹や木の棒を物干竿のような工合に幾段も結びつけて、稲を懸け
て干す、そして稲の高い屏風を立てたように見えるのだが――島村達が通る路ばたにも、百姓がそのハッテを作っ
ていた。
山袴の腰をひょいと捻って、娘が稲の束を投げ上げると、高くのぼった男が器用に受け取って、扱くように振り分け
ては、竿に懸けていった。物慣れて無心の動きが調子よく繰り返されていた。
ハッテの垂れ穂を、貴いものの目方を計るように駒子は掌に受けて、ゆさゆさ揺り上げながら、
「いい実り、触っても気持のいい稲だわ。去年とは大変なちがいだわ。」と、稲の感触を楽しむように目を細めた。そ
の上の空低く群雀が乱れ飛んだ。
「田植人夫賃金協定。九十銭、一日賃金賄附。女人夫は右の六分。」というような古い貼紙が道端の壁に残っていた。
葉子の家にもハッテがあった。街道から少し凹んだ畑の奥に建っているのだが、その庭の左手、隣家の白壁沿い
の柿の並木に、高いハッテが組んであった。そしてまた畑と庭との境にも、つまり柿の木のハッテとは直角に、やはり
ハッテで、その稲の下をくぐる入口が片端に出来ていた。莚ならぬ稲で、ちょうど小屋掛けしたようである。畑は闌れ
たダリヤと薔薇の手前に里芋が逞しい葉を拡げていた。緋鯉の蓮池はハッテの向うで見えない。
去年駒子がいたあの蚕の部屋の窓も隠れていた。
葉子は怒ったように頭を下げると、稲穂の入口を帰って行った。
「この家に一人でいるのかい。」と、島村はその少し前屈みの後姿を見送っていたが、
「そうでもないでしょう。」と、駒子は突慳貪に言った。
「ああ厭だ。もう髪を結うの止めた。あんたがよけいなこと言うから、あの人の墓参りを邪魔しちゃった。」
「墓で会いたくないって、君の意地っ張りだろう。」
「あんたが私の気持を分らないのよ。後で暇があったら、髪を洗いに行きますわ。晩くなるかもしれないけれど、きっと
行くわ。」
そして夜なかの三時であった。
障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上へばったり駒子が長く倒れて、
「来ると言ったら、来たでしょ。ねえ、来ると言ったら来たでしょ。」と、腹まで波打つ荒い息をした。
「ひどく酔ってんだね。」
「ねえ、来ると言ったら来たでしょ。」
「ああ、来たよ。」
「ここへ来る道、見えん。見えん。ふう、苦しい。」
「それでよく坂が登れたね。」
「知らん。もう知らん。」と、駒子はうんと仰反って転がるものだから、島村は重苦しくなって起き上ろうとしたが、不意
に起されたことゆえふらついて、また倒れると、頭が熱いものに載って驚いた。
「火みたいじゃないか、馬鹿だね。」
「そう? 火の枕、火傷するよ。」
「ほんとだ。」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の
激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復
讐を待つ心のようであった。
「来ると言ったら来たでしょ。」と、駒子はそれを一心に繰り返して、
「これで来たから、帰る。髪を洗うのよ。」
そして這い上ると、水をごくごく飲んだ。
「そんなんで帰れやしないよ。」
「帰る。連れがあんのよ。お湯道具、どこへ行った。」
島村が立ち上って電燈をつけると、駒子は両手で顔を隠して畳に突っ伏してしまった。
「いやよ。」
元禄袖の派手なめりんすの袷に黒襟のかかった寝間着で伊達巻をしめていた。それで襦袢の襟が見えず、素足
の縁まで酔いが出て、隠れるように身を縮めているのは変に可愛く見えた。
湯道具を投げ出したとみえ、石鹸や櫛が散らばっていた。
「切ってよ、鋏持って来たから。」
「なにを切るんだ。」
「これをね。」と、駒子は髪のうしろへ手をやって、
「うちで元結を切ろうとしたんだけれど、手が言うことをきかないのよ。ここへ寄って切って貰おうと思って。」
島村は女の髪を掻き分けて元結を切った。ひとところが切れる度に、駒子は髪を振り落しながら少し落ちついて、
「今幾時頃なの。」
「もう三時だよ。」
「あら、そんな? 地髪を切っちゃ駄目よ。」
「ずいぶん幾つも縛ってるんだね。」
彼の掴み取る髢の根の方がむっと温かった。
「もう三時なの? 座敷から帰って、倒れたまま眠ったらしいわ。お友達と約束しといたから誘ってくれたのよ。どこへ
行ったかと思ってるわ。」
「待ってるのか。」
「共同湯に入ってるわ、三人。六座敷あったんだけれど四座敷しか廻れなかった。来週は紅葉でいそがしいわ。どう
もありがとう。」と、解けた髪を梳きながら顔を上げると、眩しそうに含み笑いをして、
「知らないわ、ふふふ、可笑しいな。」
そして術なげに髢を拾った。
「お友達に悪いから行くわね。帰りにはもう寄らないわ。」
「道が見えるか。」
「見える。」
しかし裾を踏んでよろめいた。
朝の七時と夜なかの三時と、一日に二度も異常な時間に暇を盗んで来たのだと思うと、島村はただならぬものが感
じられた。
紅葉を門松のように、宿の番頭達が門口へ飾りつけていた。観楓客の歓迎である。
生意気な口調で指図しているのは、渡り鳥でさと自ら嘲るように言う臨時雇いの番頭だった。新緑から紅葉までの
間を、ここらあたりの山の湯で働き、冬は熱海や長岡などの伊豆の温泉場へ稼ぎに行く、そういう男の一人である。
毎年同じ宿に働くとは限らない。彼は伊豆の繁華な温泉場の経験を振り廻して、ここらの客扱いの陰口ばかりきいて
いた。揉手しながらしつっこく客を引くが、いかにも誠意のない物乞いじみた人相が現われていた。
「旦那、あけびの実を御存じですか。召し上るなら取って参りますよ。」と、散歩帰りの島村に言って、彼はその実を蔓
のまま紅葉の枝に結びつけた。
紅葉は山から伐って来たらしく軒端につかえる高さ、玄関がぱっと明るむように色あざやかなくれないで、一つ一つ
の葉も驚くばかり大きかった。
島村はあけびの冷たい実を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、葉子が炉端に坐っていた。
おかみさんが銅壺で燗の番をしている。葉子はそれと向い合って、なにか言われる度にはっきりうなずいていた。
山袴も羽織もなしに、洗い張りしたばかりのような銘仙を着ていた。
「手伝いの人?」と、島村がなにげなく番頭に訊くと、
「はあ、お蔭さまで、人手が足りないもんでございますから。」
「君と同じだね。」
「へえ。しかし、村の娘で、なかなか一風変っておりますな。」
葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。客がたてこむと、炊事場の女中達の声も
大きくなるのだが、葉子のあの美しい声は聞えなかった。島村の部屋を受け持つ女中の話では、葉子は寝る前に湯
槽のなかで歌を歌う癖があるということだったが、彼はそれも聞かなかった。
しかし葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情は彼に
向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれども
反ってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみな
がら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの
女にも惹かれるのだった。
島村が呼ばなくとも駒子は無論しげしげと来た。
渓流の奥の紅葉を見に行くので、彼は駒子の家の前を通ったことがあったが、その時彼女は車の音を聞きつけて、
今のは島村にちがいないと表へ飛び出てみたのに、彼はうしろを振り返りもしなかったのは薄情者だと言ったほどだ
から、彼女は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄らぬことはなかった。湯に行くにも道寄りした。宴会があると
一時間も早く来て、女中が呼ぶまで彼のところで遊んでいた。座敷をよく抜け出して来ては、鏡台で顔を直して、
「これから働きに行くの、商売気があるから。さあ、商売、商売。」と、立って行った。
撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。
「昨夜帰ったら、お湯が沸いてないの。お勝手をごそごそやって、朝の味噌汁の残りを掛けて、梅干で食べたのよ。
冷たあい。今朝うちで起してくれないのよ。目が覚めてみたら十時半、七時に起きて来ようと思ってたのに、駄目に
なったわ。」
そんなことや、どの宿からどの宿へ行ったという、座敷の模様をあれこれと報告するのだった。
「また来るわね。」と、水を飲んで立ち上りながら、
「もう来んかもしれないわ。だって三十人のところへ三人だもの、忙しくて抜けられないの。」
しかし、また間もなく来て、
「つらいわ。三十人の相手に三人しかいないの。それが一番年寄と一番若い子だから、私がつらいわ。けちな客、
きっとなんとか旅行会だわ。三十人なら少くとも六人はいなければね。飲んでおどかして来るわね。」
毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の
趣きは、反って風情を艶めかすばかりだった。
「廊下が鳴るので恥かしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。
こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった。」
「土地が狭いから困るだろう。」
「もうみんな知ってるわよ。」
「そりゃいかんね。」
「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね。」と言ったが、直ぐ顔を上げて微笑むと、
「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから。」
その素直な実感の籠った調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。
「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない。」
なにげない口振りなのだが、島村は女の響きを聞いた。
「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから。」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向
いた。
襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだか悲しく盛り上って、毛織
物じみて見え、また動物じみて見えた。
「今の世のなかではね。」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。
しかし駒子は単純に、
「いつだってそうよ。」
そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。
「あんたそれを知らないの?」
背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。
ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を、島村は翻訳してい
るのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本
であることが、反って彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた楽しみ
なのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかも知れぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらさらな
い。
彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。
秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう
起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であっ
たけれども、近づいて見ると脚や触角を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳は
たいへん広いもののように眺められた。
島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。
窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて
来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。
その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。
国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。
「今日は来られないわよ、多分。地の人の宴会だから。」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広
間に太鼓が入って女の金切声も聞えて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、
「御免下さい、御免下さい。」と、葉子が呼んでいた。
「あの、駒子ちゃんがこれよこしました。」
葉子は立ったまま郵便配達のような恰好に手を突き出したが、あわてて膝を突いた。島村がその結び文を拡げて
いると、葉子はもういなくなった。なにを言う間もなかった。
「今とっても朗らかに騒いでます酒のんで。」と、懐紙に酔った字で書いてあるだけだった。
しかし十分と経たぬうちに、駒子が乱れた足音で入って来て、
「今あの子がなにか持って来た?」
「来たよ。」
「そう?」と、上機嫌に片目を細めながら、
「ふう、いい気持。お酒を註文しに行く、そう言って、そうっと抜けて来た。番頭さんに見つかって叱られた。お酒はい
い、叱られても、足音が気にならん。ああ、いやだわ。ここへ来ると、急に酔いが出る。これから働きに行くの。」
「指の先までいい色だよ。」
「さあ、商売。あの子なんて言った? 恐ろしいやきもち焼きなの、知ってる?」
「誰が?」
「殺されちゃいますよ。」
「あの娘さんも手伝ってるんだね。」
「お銚子を運んで来て、廊下の蔭に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいう目が好きなん
でしょう。」
「あさましいありさまだと思って見てたんだよ。」
「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水頂戴。どっちがあさましいか、女は口説
き落してみないことには、分らないわよ。私酔ってる?」と、倒れるように鏡台の両端をつかまえて覗きこむと、しゃん
と裾を捌いて出て行った。
やがて宴会も終ったらしく、急にひっそりして、瀬戸物の音が遠く聞えたりするので、駒子も客に連れられて別の宿
の二次会へ廻ったのかと思っていると、葉子がまた駒子の結び文を持って来た。
「山風館やめにしましたこれから梅の間帰りによりますおやすみ」
島村は少し恥かしそうに苦笑して、
「どうもありがとう。手伝いに来てるの?」
「ええ。」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。
これまで幾度も見かける度毎に、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごともなくこうして彼の前に坐っ
ているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の真中にいるという風に見えるの
だった。
「いそがしそうだね。」
「ええ。でも、私はなんにも出来ません。」
「君にはずいぶん度々会ったな。初めはあの人を介抱して帰る汽車のなかで、駅長に弟さんのことを頼んでたの、覚
えてる?」
「ええ。」
「寝る前にお湯のなかで歌を歌うんだって?」
「あら、お行儀の悪い、いやだわ。」と、その声が驚くほど美しかった。
「君のことはなにもかも知ってるような気がするね。」
「そうですか。駒ちゃんにお聞きになったんですか。」
「あの人はしゃべりゃしない。君の話をするのをいやがるくらいだよ。」
「そうですか。」と、葉子はそっと横を向いて、
「駒ちゃんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
早口に言う、その声が終りの方は微かに顫えた。
「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
葉子は今に体まで顫えて来そうに見えた。危険な輝きが迫って来るような顔から島村は目をそらせて笑いながら、
「早く東京へ帰った方がいいかもしれないんだけれどもね。」
「私も東京へ行きますわ。」
「いつ?」
「いつでもいいんですの。」
「それじゃ、帰る時連れて行ってあげようか。」
「ええ、連れて帰って下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で言うので、島村は驚いた。
「君のうちの人がよければね。」
「うちの人って、鉄道へ出ている弟一人ですから、私がきめちゃっていいんです。」
「東京になんかあてがあるの?」
「いいえ。」
「あの人に相談した?」
「駒ちゃんですか。駒ちゃんは憎いから言わないんです。」
そう言って、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反って、
駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。為体の知れない娘と駈落ちのように帰ってしまうことは、駒子
への激しい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしら刑罰のようでもあった。
「君はそんな、男の人と行ってこわくはないのかい。」
「どうしてですか。」
「君が東京でさしずめ落ちつく先きとか、なにをしたいとかいうことくらいきまってないと危いじゃないか。」
「女一人くらいどうにでもなりますわ。」と、葉子は言葉尻が美しく吊り上るように言って、島村を見つめたまま、
「女中に使っていただけませんの?」
「なあんだ、女中にか?」
「女中はいやなんです。」
「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ。」
「看護婦です。」
「病院か学校に入ってたの。」
「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ。」
島村はまた汽車のなかで師匠の息子を介抱していた葉子の姿を思い出して、あの真剣さのうちには葉子の志望も
現われていたのかと微笑まれた。
「それじゃ今度も看護婦の勉強がしたいんだね。」
「看護婦にはもうなりません。」
「そんな根なしじゃいけないね。」
「あら、根なんて、いやだわ。」と、葉子は弾き返すように笑った。
その笑い声も悲しいほど高く澄んでいるので、白痴じみては聞えなかった。しかし島村の心の殻を空しく叩いて消え
てゆく。
「なにがおかしいんだ。」
「だって、私は一人の人しか看病しないんです。」
「え?」
「もう出来ませんの。」
「そうか。」と、島村はまた不意打ちを食わされて静かに言った。
「毎日君は蕎麦畑の下の墓にばかり参ってるそうだね。」
「ええ。」
「一生のうちに、外の病人を世話することも、外の人の墓に参ることも、もうないと思ってるのか?」
「ないわ。」
「それに墓を離れて、よく東京へ行けるね?」
「あら、すみません。連れて行って下さい。」
「君は恐ろしいやきもち焼きだって、駒子が言ってたよ。あの人は駒子のいいなずけじゃなかったの?」
「行男さんの? 嘘、嘘ですよ。」
「駒子が憎いって、どういうわけだ。」
「駒ちゃん?」と、そこにいる人を呼ぶかのように言って、葉子は島村をきらきら睨んだ。
「駒ちゃんをよくしてあげて下さい。」
「僕はなんにもしてやれないんだよ。」
葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちていた小さい蛾を掴んで泣きじゃくりながら、
「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです。」と、ふっと部屋を出て行ってしまった。
島村は寒気がした。
葉子の殺した蛾を捨てようとして窓をあけると、酔った駒子が客を追いつめるような中腰になって拳を打っているの
が見えた。空は曇っていた。島村は内湯に行った。
隣りの女湯へ葉子が宿の子をつれて入って来た。
着物を脱がせたり、洗ってやったりするのが、いかにも親切なものいいで、初々しい母の甘い声を聞くように好もし
かった。
そしてあの声で歌い出した。
…………
…………
裏へ出て見たれば
梨の樹が三本
杉の樹が三本
みんなで六本
下から烏が
巣をかける
上から雀が
巣をかける
森の中の螽・
どういうて囀るや
お杉友達墓参り
墓参り一丁一丁一丁や
手鞠歌の幼い早口で生き生きとはずんだ調子は、ついさっきの葉子など夢かと島村に思わせた。
葉子が絶え間なく子供にしゃべり立てて上ってからも、その声が笛の音のようにまだそこらに残っていそうで、黒光
りに古びた玄関の板敷きに片寄せてある、桐の三味線箱の秋の夜更らしい静まりにも、島村はなんとなく心惹かれ
て、持主の芸者の名を読んでいると、食器を洗う音の方から駒子が来た。
「なに見てんの?」
「この人泊りかい?」
「誰。ああ、これ? 馬鹿ねえ、あんた、そんなものいちいち持って歩けやしないじゃないの。幾日も置きっ放しにしとく
ことがあるのよ。」と笑ったはずみに、苦しい息を吐きながら目をつぶると、褄を放して島村によろけかかった。
「ねえ、送って頂戴。」
「帰ることないじゃないか。」
「だめ、だめ、帰る。地の人の宴会で、みんな二次会へついて行ったのに、私だけ残ったのよ。ここにお座敷があった
からいいようなものの、お友達が帰りにお湯へでも誘ってくれて、私が家にいなかったら、あんまりだわ。」
したたか酔ってるのに、駒子は険しい坂をしゃんしゃん歩いた。
「あの子をあんた泣かしたのね。」
「そう言えば、確かに少し気ちがいじみてるね。」
「人のことをそんな風に見て、面白いの?」
「君が言ったんじゃないか、気ちがいになりそうだって、君に言われたのを思い出すと、くやしくて泣き出したらしかっ
たよ。」
「それならいいわ。」
「ものの十分もたたぬうちに、お湯に入っていい声で歌ってるんだ。」
「お湯のなかで歌を歌うのは、あの子の癖なのよ。」
「君のことをよくしてあげて下さいって、真剣に頼むんだ。」
「馬鹿ねえ。だけど、そんなこと、あなた私に吹聴なさらなくってもいいじゃないの。」
「吹聴? 君はあの娘のこととなると、どうしてだか知らないが妙に意地を張るんだね。」
「あんたあの子が欲しいの?」
「それ、そういうことを言う。」
「じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あん
ただって仮にあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ。」と、駒子は島
村の肩に手をかけてしなだれて来たが、突然首を振ると、
「ちがう。あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持って
行っちゃってくれない?」
「いい加減にしろよ。」
「酔って管を巻いてると思ってらっしゃるわ? あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで
身を持ち崩すの。しいんといい気持。」
「おい。」
「ほっといて頂戴。」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶっつかると、そこは駒子の家だった。
「もう帰らないと思ってるんだ。」
「ううん、あくのよ。」
枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。
「寄って行って。」
「だって今頃。」
「もう家の人は寝ちゃってますわ。」
島村はさすがにしりごみした。
「それじゃ私が送って行きます。」
「いいよもう。」
「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの。」
勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固
い蒲団を並べて、主人夫婦と十七八の娘を頭に五六人の子供が薄茶けた明りの下に、思い思いの方に顔を向けて
眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠っていた。
島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたぴししめて、
足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫え
た。
「ここで待ってて。二階の明りを、つけますから。」
「いいよ。」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。
百姓家らしい古畳の二階は四間で、
「私一人だから広いことは広いのよ。」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に
積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家の
ようであった。
駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座蒲団を島村にすすめて、
「まあ、真赤。」と、鏡を覗いた。
「こんなに酔ってたのかしら?」
そして箪笥の上の方を捜しながら、
「これ、日記。」
「ずいぶんあるんだね。」
その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。
「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。その
かわりたいていのものは揃ってるわ。」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。
「あら、燐寸がないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ。」
「いいよ。裁縫してたの?」
「ええ。紅葉のお客さんで、ちっとも捗らないの。」と、駒子は振り向いて、箪笥の前の縫物を片寄せた。
駒子の東京暮しの名残であろう、柾目のみごとな箪笥や朱塗の贅沢な裁縫箱は、師匠の家の古い紙箱のような屋
根裏にいた時と同じだけれども、この荒れた二階では無慚に見えた。
電燈から細い紐が枕の上へ下っていた。
「本を読んで寝る時に、これを引っぱって消すのよ。」と、駒子はその紐を弄びながら、しかし家庭の女じみた風にお
となしく坐って、なにか羞んでいた。
「狐のお嫁入りみたいだね。」
「ほんとうですわ。」
「この部屋で四年暮すのかい。」
「でも、もう半年すんだわ。直ぐよ。」
下の人達の寝息が聞えて来るようだし、話の継穂がないので、島村はそそくさと立ち上った。
駒子は戸をしめながら、首を突き出して空を仰ぐと、
「雪催いね。もう紅葉もおしまいになるわ。」と、また表に出て、
「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る。」
「じゃあ、お休み。」
「送って行くわ。宿の玄関までよ。」
ところが島村といっしょに宿へ入って来て、
「お休みなさいね。」と、どこかへ消えて行ったのに、しばらくするとコップに二杯なみなみと冷酒をついで、彼の部屋
へ入って来るなり激しく言った。
「さあ、飲みなさい、飲むのよ。」
「宿で寝ちゃってるのに、どこから持って来た。」
「ううん、あるとこは分ってる。」
駒子は樽から出す時にも飲んで来たとみえ、さっきの酔いが戻ったらしく眼を細めてコップから酒のこぼれるのを見
据えながら、
「でも、暗がりでひっかけるとおいしくないわ。」
突きつけられたコップの冷酒を島村は無造作に飲んだ。
こればかりの酒で酔うはずはないのに、表を歩いて体が冷えていたせいか、急に胸が悪くなって頭へ来た。顔の青
ざめるのが自分に分るようで、目をつぶって横たわると、駒子はあわてて介抱し出したが、やがて島村は女の熱いか
らだにすっかり幼く安心してしまった。
駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首
を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。
島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね。」
「どうして? どこがいいの。」
「いい子だよ。」
「そう? いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりして頂戴。」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ
切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。
そして一人で含み笑いして、
「よくないわ。つらいから帰って頂戴。もう着る着物がないの。あんたのとこへ来る度に、お座敷着を変えたいけれど、
すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」
島村は言葉も出なかった。
「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、
「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやあな
気がした。」
島村はうなずいた。
「あら。それを私今まで黙ってたの、分る? 女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの。」
「いいよ。」
「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温く島村に伝わっ
て来た。
「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青ざめると、涙
をぽろぽろ落した。
「くやしい、ああっ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。
島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。
「悲しいわ。」
駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。
そうして泣きくたびれたか、ぷすりぷすりと銀の簪を畳に突き刺していたが、不意に部屋を出て行ってしまった。
島村は後を追うことが出来なかった。駒子に言われてみれば、十分に心疚しいものがあった。
しかし直ぐに駒子は足音を忍ばせて戻ったらしく、障子の外から上ずった声で呼んだ。
「ねえ、お湯にいらっしゃいません?」
「ああ。」
「御免なさいね。私考え直して来たの。」
廊下に隠れて立ったまま、部屋へ入って来そうもないので、島村が手拭を持って出て行くと、駒子は目を合わせる
のを避けて、少しうつ向きながら先きに立った。罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿であったが、湯で体が温ま
る頃から変にいたいたしいほどはしゃぎ出して、眠るどころでなかった。
その次の朝、島村は謡の声で目が覚めた。
しばらく静かに謡を聞いていると、駒子が鏡台の前から振り返って、にっと微笑みながら、
「梅の間のお客さま。昨夜宴会の後で呼ばれたでしょう。」
「謡の会の団体旅行かね。」
「ええ。」
「雪だろう?」
「ええ。」と、駒子は立ち上って、さっと障子をあけて見せた。
「もう紅葉もおしまいね。」
窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。
島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。
謡の人々は鼓も打っていた。
島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく
浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。
駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とは到底思えな
いところに、反って逆らい難い悲しみがあるかと見えた。
紅葉の銹色が日毎に暗くなっていた遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。
薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくっきりと目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った。
雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上に晒す。績み始めてから織り終るまで、すべては
雪のなかであった。雪ありて縮あり、雪は縮の親というべしと、昔の人も本に書いている。
村里の女達の長い雪ごもりのあいだの手仕事、この雪国の麻の縮は島村も古着屋であさって夏衣にしていたもの
だ。踊の方の縁故から能衣裳の古物などを扱う店も知っているので、筋のいい縮が出たらいつでも見せてほしいと
頼んであるほど、この縮を好んで、一重の襦袢にもした。
雪がこいの簾をあけて、雪解の春のころ、昔は縮の初市が立ったという。はるばる縮を買いに来る三都の呉服問屋
の定宿さえあったし、娘達が半年の丹精で織り上げたのもこの初市のためだから、遠近の村里の男女が寄り集まっ
て来て、見世物や物売の店も並び、町の祭のように賑わったという。縮には織子の名と所とを書いた紙札をつけて、
その出来栄えを一番二番という風に品定めした。嫁選びにもなった。子供のうちに織り習って、そうして十五六から二
十四五までの女の若さでなければ、品のいい縮は出来なかった。年を取っては機面のつやが失われた。娘達は指
折りの織子の数に入ろうとしてわざを磨いただろうし、旧暦の十月から糸を績み始めて明る年の二月半ばに晒し終る
という風に、ほかにすることもない雪ごもりの月日の手仕事だから念を入れ、製品には愛着もこもっただろう。
島村が着る縮のうちにも、明治の初めから江戸の末の娘が織ったものはあるかもしれなかった。
自分の縮を島村は今でも「雪晒し」に出す。誰が肌につけたかしれない古着を、毎年産地へ晒しに送るなど厄介だ
けれども、昔の娘の雪ごもりの丹精を思うと、やはりその織子の土地でほんとうの晒し方をしてやりたいのだった。深
い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪か布かが紅に染まるありさまを考えるだけでも、夏のよごれが取れそうだ
し、わが身をさらされるように気持よかった。もっとも東京の古着屋が扱ってくれるので、昔通りの晒し方が今に伝
わっているのかどうか、島村は知らない。
晒屋は昔からあった。織子が銘々の家で晒すということは少く、たいがい晒屋に出した。白縮は織りおろしてから晒
し、色のある縮は糸につくったのを拐にかけて晒す。白縮は雪へじかにのばして晒す。旧の一月から二月にかけて
晒すので、田や畑を埋めつくした雪の上を晒場にすることもあるという。
布にしろ糸にしろ、夜通し灰汁に浸しておいたのを翌る朝幾度も水で洗っては絞り上げて晒す。これを幾日も繰り
返すのだった。そうして白縮をいよいよ晒し終ろうとするところへ朝日が出てあかあかとさす景色はたとえるものがな
く、暖国の人に見せたいと、昔の人も書いている。また縮を晒し終るということは雪国が春の近いしらせであったろう。
縮の産地はこの温泉場に近い。山峡の少しずつひらけてゆく川下の野がそれで、島村の部屋からも見えていそう
だった。昔縮の市が立ったという町にはみな汽車の駅が出来て、今も機業地として知られている。
しかし島村は縮を着る真夏にも縮を織る真冬にも、この温泉場に来たことがないので、駒子に縮の話をしてみる折
はなかった。
ところが葉子が湯殿で歌っていた歌を聞いて、この娘も昔生れていたら、糸車や機にかかって、あんな風に歌った
のかもしれないと、ふと思われた。葉子の歌はいかにもそういう声だった。
毛よりも細い麻糸は天然の雪の湿気がないとあつかいにくく、陰冷の季節がよいのだそうで、寒中に織った麻が暑
中に着て肌に涼しいのは陰陽の自然だという言い方を昔の人はしている。島村にまつわりついて来る駒子にも、な
にか根の涼しさがあるようだった。そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にあわれだった。
けれどもこんな愛着は一枚の縮ほどの確かな形を残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にし
ても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い馴れは縮
ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮んで来
たりして、島村ははっとあたりを見まわした。疲れているのかと思った。
妻子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげ
しげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生
きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。駒子
が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなに
も駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつ
むように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。
こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来られないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢により
かかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が
器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少
し向うに小さい鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴り
しきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早こ
こを去らねばならぬと心立った。
そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。
しかし川下に幾つもある町のどれへ行けばよいのか、島村はわからなかった。現在機業地に発展している大きい
町が見たいというのではないので、島村はむしろさびしそうな駅に下りた。しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。
家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、
この国では昔から雁木というらしく、雪の深いあいだの往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いて
いる。
隣りから隣りへ連なっているから、屋根の雪は道の真中へおろすより捨場がない。実際は大屋根から道の雪の堤
へ投げ上げるのだ。向う側へ渡るのには雪の堤をところどころくりぬいてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方では
いうらしい。
同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだっ
た。もの珍らしさにちょっとそのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちていたりした。
先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。
雪の底で手仕事に根をつめた織子達の暮しは、その製作品の縮のように爽かで明るいものではなかった。そう思
われるに十分な古町の印象だった。縮のことを書いた昔の本にも唐の秦韜玉の詩などが引かれているが、機織女を
抱えてまで織らせる家がなかったのは、一反の縮を織るのにずいぶん手間がかかって、銭勘定では合わないからだ
という。
そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅
沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこか
で人を鞭打つものだろうか。島村は雁木の下から道へ出た。
宿場の街道筋らしく真直に長い町通だった。温泉村から続いている古い街道だろう。板葺きの屋根の算木や添石
も温泉町と変りがなかった。
庇の柱が薄い影を落していた。いつのまにか夕暮近くだった。
なにも見るものがないので、島村はまた汽車に乗って、もう一つの町に下りてみた。前の町と似たものだった。やは
りただぶらぶら歩いて、寒さしのぎにうどんを一杯すすっただけだった。
うどん屋は川岸で、これも温泉場から流れて来る川だろう。尼僧が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くの
が見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠を背負ったのもあって、托鉢の帰りのようだった。烏が塒に急ぐ感じだった。
「尼さんがだいぶ通るね?」と、島村はうどん屋の女にたずねてみた。
「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう。」
橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。
この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高い山が白くなる。こ
れを岳廻りという。また海のあるところは海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りとい
う。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。
島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一
人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだ
けで、その遠鳴が耳の底を通るようだった。
「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの。」
「さあ。大勢でしょうよ。」
「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうか
な。」
物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。
島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。
足が冷えた。
なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、
目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が三四人立話し
ていた。
駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。
車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はなんとなく徐行したらしい。
ふと島村は駒子と逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、
星明りに思いがけなく遠くまで見えた。
車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに
坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。
飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温いものに寄り添われたようで、駒子のしている
ことに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が辷って長襦袢の色が厚いガラス越
しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。
駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。
「危いじゃないか。無茶をするね。」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。
駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車はもう止まっているのだった。山の裾に来ていた。
「ねえ、どこへいらしたの?」
「うん、まあ。」
「どこ?」
「どこってこともないが。」
駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村に珍らしいもののように見えたりした。
運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、
「おりましょう。」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、
「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れて行かなかったの?」
「そうだったね。」
「なによ? おかしなひと。」
駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。
「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時前だったわね?」
「うん。」
「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」
「ええ?」
「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」
島村はおどろいた。
「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」
「知らなかったね。」
「そうれごらんなさい。」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。
「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなって来て、いやよ。」
突然擦半鐘が鳴り出した。
二人は振り向くなり、
「火事、火事よ!」
「火事だ。」
火の手が下の村の真中にあがっていた。
駒子はなにか二声三声叫んで島村の手をつかんだ。
黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。
「どこだ、君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか。」
「ちがう。」
「どのへんだ。」
「もっと上よ。停車場寄りよ。」
炎が屋根を抜いて立ちあがった。
「あら、繭倉だわ。繭倉だわ。あら、あら、繭倉が焼けてるのよ。」と、駒子は言い続けて島村の肩に頬を押しつけた。
「繭倉よ、繭倉よ。」
火は燃えさかって来るばかりだが、高みから大きい星空の下に見下すと、おもちゃの火事のように静かだった。そ
のくせすさまじい炎の音が聞えそうな恐ろしさは伝わってきた。島村は駒子を抱いた。
「こわいことないじゃないか。」
「いや、いや、いや。」と、駒子はかぶりを振って泣き出した。その顔が島村の掌にいつもより小さく感じられた。固い
こめかみが顫えていた。
火を見て泣き出したのだが、なにを泣くのかと島村はいぶかりもしないで抱いていた。
駒子は不意に泣きやむと顔を離して、
「あら、そうだった、繭倉に映画があるのよ、今夜だわ。人がいっぱいはいってるのよ、あんた……。」
「そりゃあ大変だ。」
「怪我人が出てよ。焼け死ぬわ。」
二人はあわてて石段を駈け登った。上の方で騒ぐ声が聞えるからだ。見上げると高い宿屋の二階三階も、たいて
いの部屋が障子をあけた明りの廊下に人が出て火事を見ていた。庭のはずれに並んだ菊の末枯が宿の燈か星明り
かで輪郭を浮べ、ふと火事が映っていると思わせたが、その菊のうしろにも人が立っていた。二人の顔の上へ宿の
番頭などが三四人ころぶように下りて来た。駒子は声を張りあげて、
「あんた、繭倉あ?」
「繭倉だあ。」
「怪我人は? 怪我人はないの?」
「どんどん助け出してるんだあ。活動のフィルムから、ぼうんといっぺんに燃えついて、火の廻りが早いや。電話で聞
いたんだ。あれ見ろい。」と、番頭は出会い頭に片腕を振り上げて行った。
「子供なんざあ、二階からぼんぼん投げおろしてるんだってさ。」
「まあ。どうしよう。」と、駒子は番頭を追うように石段を下りた。後から下りて来る人々が駈け抜けて行った。駒子も誘
われて走り出していた。島村も追っかけた。
石段の下では火事が人家にかくれて焔の頭しか見えないところへ、擦半鐘が鳴り渡るので、なお不安が増して走っ
た。
「雪が凍みてるから気をつけてね。滑る。」と、駒子は島村を振り向いたが、その拍子に立ち止まって、
「でも、そうよ。あんたはいいのよ、いらっしゃらなくて。私は村の人が心配よ。」
言われてみればそうだった。島村は拍子抜けがすると足もとに線路が見えた。踏切の前まで来ていた。
「天の河。きれいねえ。」
駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。
ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆくようだった。天の河の明る
さが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさで
あったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は
自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりで
なく、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで
行った。
「おうい。おうい。」
島村は駒子を呼んだ。
「ほうい。来てちょうだあい。」
天の河が垂れさがる暗い山の方へ駒子は走っていた。
褄を取っているらしく、その腕を振るたびに赤い裾が多く出たり縮まったりした。星明りの雪の上に赤い色だとわ
かった。
島村は一散に追っかけた。
駒子は足をゆるめると、褄をはなして島村の手を取った。
「行くの、あんたも?」
「うん。」
「物好きねえ。」と、雪の上に落ちている裾をつまみ上げて、
「私が笑われるから、帰って頂戴。」
「うん、そこまで。」
「悪いじゃないの? 火事場まであんたを連れて行くなんて、村の人に悪いわ。」
島村はうなずいて止まったのに、駒子が島村の袖に軽くつかまったままゆっくり歩き出した。
「どこかで待ってて頂戴。直ぐ戻って来ます。どこがいい。」
「どこでもいいよ。」
「そうね、もう少し向う。」と、駒子は島村の顔をのぞきこんだが、急にかぶりを振って、
「いやだ、もう。」
どんと駒子は体をぶっつけた。島村は一足よろけた。道端の薄雪のなかに葱の列が立っていた。
「なさけないわ。」
そして駒子は早口に挑みかかった。
「ねえ、あんた、私をいい女だって言ったわね。行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」
駒子が簪をぷすりぷすり畳に突き刺していたのを、島村は思い出した。
「泣いたわ。うちへ帰ってからも泣いたわ。あんたと離れるのこわいわ。だけどもう早く行っちゃいなさい。言われて泣
いたこと、私忘れないから。」
駒子の聞きちがえで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に絞めつけられるようだった
が、俄かに火事場の人声が聞えて来た。新しい火の手が火の子を噴き上げた。
「あら、また、あんなに燃えて、あんなに火が出たわ。」
二人はほっと救われたように走り出した。
駒子はよく走った。凍りついた雪を下駄で掠めて飛ぶかと見え、腕も前後に振るというよりも両脇に張った形だった。
胸のあたりに固く力をこめた形で、案外小柄だと島村は思った。小太りの島村は駒子の姿を見ながら走っているので、
なお早く苦しくなった。しかし、駒子も急に息切れして、島村によろけかかった。
「目玉が寒くて、涙が出るわ。」
頬がほてって目ばかり冷たい。島村も瞼が濡れた。瞬くと天の河が目に満ちた。島村はその涙が落ちそうなのをこ
らえて、
「毎晩、こんな天の河かい。」
「天の河? きれいね、毎晩じゃないでしょう。よく晴れてるわ。」
天の河は二人が走って来たうしろから前へ流れおりて、駒子の顔は天の河のなかで照らされるように見えた。
しかし、鼻の形も明らかでないし、脣の色も消えていた。空をあふれて横切る明りの層が、こんなに暗いのかと島村
は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの形
もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いのすることが不思議だった。
見上げていると天の河はまたこの大地を抱こうとしておりて来ると思える。
大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しい
んと冷える寂しさでありながら、なにか艶めかしい驚きでもあった。
「あんたが行ったら、私は真面目に暮すの。」と、駒子は言って歩き出すと、ゆるんだ髷に手をやった。五六歩行って
振り返った。
「どうしたの。いやよ。」
島村は立ったままでいた。
「そう? 待っててね。後でいっしょにお部屋へ行かせて。」
駒子はちょっと左手を上げてから走った。後姿が暗い山の底に吸われて行くようだった。天の河はその山波の線で
切れるところに裾をひらき、また逆にそこから花やかな大きさで天へひろがってゆくようだったから、山はなお暗く沈
んでいた。
島村が歩き出すと間もなく駒子の姿は街道の人家でかくれた。
「やっしょ、やっしょ、やっしょ。」と掛声が聞えて、ポンプをひいて行くのが街道に見えた。街道は後から後から人が
走っているらしい。島村も急いで街道に出た。二人が来た道は丁字形に街道へ突きあたるのだった。
またポンプが来た。島村はやり過して、その後について走った。
古い手押型の木のポンプだった。長い綱を先引きする一隊のほかに、ポンプのまわりも消防が取り巻いている、そ
れがおかしいほどポンプは小さかった。
そのポンプの来るのを、駒子も道端によけていた。島村をみつけていっしょに走った。ポンプをよけて道端に立った
人々が、ポンプに吸い寄せられてゆくように後を追った。今は二人も火事場へ駈けつける人の群に過ぎなかった。
「いらしたの? 物好きに。」
「うん。心細いポンプだね、明治前だ。」
「そうよ。ころばないでね。」
「滑るね。」
「そうよ、これから、地吹雪が一晩中荒れる時に、あんた一度、来てごらんなさい。来られないでしょう。雉や兎が、人
家のなかへ逃げ込んで来るわ。」などと駒子が言っても、消防の掛声や人々の足音に調子づいて、明るくはずんだ
声だった。島村も身が軽かった。
焔の音が聞えた。眼の前に火の手が立った。駒子は島村の肘をつかんだ。街道の低い黒い屋根が火明りでほうっ
と呼吸するように浮き出して、また薄れた。足もとの道にポンプの水が流れて来た。島村と駒子も人垣に自然立ちど
まった。火事の焦臭さに繭を煮るような臭いがまじっていた。
映画のフィルムから火が出たとか、見物の子供を二階からぽんぽん投げおろしたとか、怪我人はなかったとか、今
は村の繭も米も入っていなくてよかったとか、人々はあちこちで似たことを声高にしゃべり合っているのに、みな火に
向って無言でいるような、遠近の中心の抜けたような、一つの静かさが火事場を統一していた。火の音とポンプの音
とを聞いているという風だった。
時々、おくれて駈けつける村人があって、肉親の名を呼びまわる。答える者があって、喜んで叫び合う。それらの声
だけは生き生きと通った。擦半鐘はもう鳴りやんでいた。
人目もあると思って、島村は駒子からそっと離れると、ひとかたまりの子供のうしろに立った。火照りで子供達は後
ずさりした。足もとの雪も少しゆるんで来るらしかった。人垣の前の雪は火と水で溶け、乱れた足形にぬかるんでい
た。
そこは繭倉の横の畑地で、島村達といっしょに駈けつけた村人は大方そこにはいったのだった。
火は映写機を据えた入口の方から出たらしく、繭倉の半ばほどはもう屋根も壁も焼け落ちていたが、柱や梁などの
骨組はいぶりながら立っていた。板葺板壁に板の床だけでがらんどうだから、屋内にはそう煙も巻いていないし、
たっぷり水を浴びた屋根も燃えていそうには見えないのに、火移りは止まらぬらしく、思いがけないところから焔が出
た。三台のポンプの水があわてて消しに向うと、どっと火の子を噴き上げて黒煙が立った。
その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を
流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。屋根を外れたポンプの水先が揺れて、水煙となって薄白いのも、
天の河の光が映るかのようだった。
いつのまに寄って来たのか、駒子が島村の手を握った。島村は振り向いたが黙っていた。駒子は火の方を見たま
まで、少し上気した生真面目な顔に焔の呼吸がゆらめいていた。島村の胸に激しいものがこみ上げて来た。駒子の
髷はゆるんで、咽は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって、島村は指先がふるえた。島村の手も温まってい
たが、駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は別離が迫っているように感じた。
入口の方の柱かなにかからまた火が起きて燃え出し、ポンプの水が一筋消しに向うと、棟や梁がじゅうじゅう湯気
を立てて傾きかかった。
あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。
繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低い。その二階から落ち
たので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追えたほどの時間があったかのように見えた。人
形じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。一目で失心していると分った。下に落ちても音はしなかった。水の
かかった場所で、埃も立たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。
古い燃えかすの火に向って、ポンプが一台斜めに弓形の水を立てていたが、その前にふっと女の体が浮んだ。そ
ういう落ち方だった。女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。
非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗
さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の
体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。そうなりそうなけはいは見えたが、水
平のまま落ちた。
「ああっ。」
駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
落ちた女が葉子だと、島村も分ったのはいつだったろう。人垣があっと息を呑んだのも駒子がああっと叫んだのも、
実は同じ瞬間のようだった。葉子の腓が地上で痙攣したのも、同じ瞬間のようだった。
駒子の叫びは島村の身うちを貫いた。葉子の腓が痙攣するのといっしょに、島村の足先まで冷たい痙攣が走った。
なにかせつない苦痛と悲哀とに打たれて、動悸が激しかった。
葉子の痙攣は目にとまらぬほどかすかなもので、直ぐに止んだ。
その痙攣よりも先きに、島村は葉子の顔と赤い矢絣の着物を見ていた。葉子は仰向けに落ちた。片膝の少し上ま
で裾がまくれていた。地上にぶっつかっても、腓が痙攣しただけで、失心したままらしかった。島村はやはりなぜか死
は感じなかったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものを感じた。
葉子を落した二階桟敷から骨組の木が二三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美
しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。火明りが青白い顔の上を揺れ通った。
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともっ
た時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。なにかせ
つない苦痛と悲哀もここにあった。
駒子が島村の傍から飛び出していた。駒子が叫んで眼をおさえたのと、ほとんど同じ瞬間のようだった。人垣が
あっと息を呑んだままの時だった。
水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうと
した。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰か
を抱いているように見えた。
人垣が口々に声をあげて崩れ出し、どっと二人を取りかこんだ。
「どいて、どいて頂戴。」
駒子の叫びが島村に聞えた。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」
そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。
踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。
雪国
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り
出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色
はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ。」
「こんなところ、今に寂しくて参るだろうよ。若いのに可哀想だな。」
「ほんの子供ですから、駅長さんからよく教えてやっていただいて、よろしくお願いいたしますわ。」
「よろしい。元気で働いてるよ。これからいそがしくなる。去年は大雪だったよ。よく雪崩れてね、汽車が立往生するん
で、村も焚出しがいそがしかったよ。」
「駅長さんずいぶん厚着に見えますわ。弟の手紙には、まだチョッキも着ていないようなことを書いてありましたけれ
ど。」
「私は着物を四枚重ねだ。若い者は寒いと酒ばかり飲んでいるよ。それでごろごろあすこにぶっ倒れてるのさ、風邪
をひいてね。」
駅長は官舎の方へ手の明りを振り向けた。
「弟もお酒をいただきますでしょうか。」
「いや。」
「駅長さんもうお帰りですの?」
「私は怪我をして、医者に通ってるんだ。」
「まあ。いけませんわ。」
和服に外套の駅長は寒い立話を切り上げたいらしく、もう後姿を見せながら、
「それじゃまあ大事にいらっしゃい。」
「駅長さん、弟は今出ておりませんの?」と、葉子は雪の上を目捜しして、
「駅長さん、弟をよく見てやって、お願いです。」
悲しいほど美しい声であった。高い響きのまま夜の雪から木魂して来そうだった。
汽車が動きだしても、彼女は窓から胸を入れなかった。そうして線路の下を歩いている駅長に追いつくと、
「駅長さあん、今度の休みの日に家へお帰りって、弟に言ってやって下さあい。」
「はあい。」と、駅長が声を張りあげた。
葉子は窓をしめて、赤らんだ頬に両手をあてた。
ラッセルを三台備えて雪を待つ、国境の山であった。トンネルの南北から、電力による雪崩報知線が通じた。除雪
人夫延人員五千名に加えて消防組青年団の延人員二千名出動の手配がもう整っていた。
そのような、やがて雪に埋もれる鉄道信号所に、葉子という娘の弟がこの冬から勤めているのだと分ると、島村は
一層彼女に興味を強めた。
しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知る
はずはなかった。二人のしぐさは夫婦じみていたけれども、男は明らかに病人だった。病人相手ではつい男女の隔
てがゆるみ、まめまめしく世話すればするほど、夫婦じみて見えるものだ。実際また自分より年上の男をいたわる女
の幼い母ぶりは、遠目に夫婦とも思われよう。
島村は彼女一人だけを切り離して、その姿の感じから、自分勝手に娘だろうときめているだけのことだった。でもそ
れには、彼がその娘を不思議な見方であまりに見つめ過ぎた結果、彼自らの感傷が多分に加わってのことかもしれ
ない。
もう三時間も前のこと、島村は退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、こ
れから会いに行く女をなまなましく覚えている、はっきり思い出そうとあせればあせるほど、つかみどころなくぼやけ
てゆく記憶の頼りなさのうちに、この指だけは女の触感で今も濡れていて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのようだ
と、不思議に思いながら、鼻につけて匂いを嗅いでみたりしていたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこに女
の片眼がはっきり浮き出たのだった。彼は驚いて声をあげそうになった。しかしそれは彼が心を遠くへやっていたか
らのことで、気がついてみればなんでもない、向側の座席の女が写ったのだった。外は夕闇がおりているし、汽車の
なかは明りがついている。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温みでガラスがすっかり水蒸気に濡れ
ているから、指で拭くまでその鏡はなかったのだった。
娘の片眼だけは反って異様に美しかったものの、島村は顔を窓に寄せると、夕景色見たさという風な旅愁顔を俄づ
くりして、掌でガラスをこすった。
娘は胸をこころもち傾けて、前に横たわった男を一心に見下していた。肩に力が入っているところから、少しいかつ
い眼も瞬きさえしないほどの真剣さのしるしだと知れた。男は窓の方を枕にして、娘の横へ折り曲げた足をあげてい
た。三等車である。島村の真横ではなく、一つ前の向側の座席だったから、横寝している男の顔は耳のあたりまでし
か鏡に写らなかった。
娘は島村とちょうど斜めに向い合っていることになるので、じかにだって見られるのだが、彼女等が汽車に乗り込ん
だ時、なにか涼しく刺すような娘の美しさに驚いて目を伏せる途端、娘の手を固くつかんだ男の青黄色い手が見えた
ものだから、島村は二度とそっちを向いては悪いような気がしていたのだった。
鏡の中の男の顔色は、ただもう娘の胸のあたりを見ているゆえに安らかだという風に落ちついていた。弱い体力が
弱いながらに甘い調和を漂わせていた。襟巻を枕に敷き、それを鼻の下にひっかけて口をぴったり覆い、それからま
た上になった頬を包んで、一種の頬かむりのような工合だが、ゆるんで来たり、鼻にかぶさって来たりする。男が目を
動かすか動かさぬうちに、娘はやさしい手つきで直してやっていた。見ている島村がいら立って来るほど幾度もその
同じことを、二人は無心に繰り返していた。また、男の足をつつんだ外套の裾が時々開いて垂れ下る。それも娘は直
ぐ気がついて直してやっていた。これらがまことに自然であった。このようにして距離というものを忘れながら、二人は
果しなく遠くへ行くものの姿のように思われたほどだった。それゆえ島村は悲しみを見ているというつらさはなくて、夢
のからくりを眺めているような思いだった。不思議な鏡のなかのことだったからでもあろう。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり写るものと写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物
と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二
つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時
には、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えたほどだった。
遥かの山の空はまだ夕焼の名残の色がほのかだったから、窓ガラス越しに見る風景は遠くの方までものの形が消
えてはいなかった。しかし色はもう失われてしまっていて、どこまで行っても平凡な野山の姿が尚更平凡に見え、なに
ものも際立って注意を惹きようがないゆえに、反ってなにかぼうっと大きい感情の流れであった。無論それは娘の顔
をそのなかに浮べていたからである。窓の鏡に写る娘の輪郭のまわりを絶えず夕景色が動いているので、娘の顔も
透明のように感じられた。しかしほんとうに透明かどうかは、顔の裏を流れてやまぬ夕景色が顔の表を通るかのよう
に錯覚されて、見極める時がつかめないのだった。
汽車のなかもさほど明るくはないし、ほんとうの鏡のように強くはなかった。反射がなかった。だから、島村は見入っ
ているうちに、鏡のあることをだんだん忘れてしまって、夕景色の流れのなかに娘が浮んでいるように思われて来た。
そういう時、彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかっ
た。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔
を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘
の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。
こんな風に見られていることを、葉子は気づくはずがなかった。彼女はただ病人に心を奪われていたが、たとえ島
村の方へ振り向いたところで、窓ガラスに写る自分の姿は見えず、窓の外を眺める男など目にも止まらなかっただろ
う。
島村が葉子を長い間盗見しながら彼女に悪いということを忘れていたのは、夕景色の鏡の非現実な力にとらえら
れていたからだったろう。
だから彼女が駅長に呼びかけて、ここでもなにか真剣過ぎるものを見せた時にも、物語めいた興味が先きに立った
のかもしれない。
その信号所を通るころは、もう窓はただ闇であった。向うに風景の流れが消えると鏡の魅力も失われてしまった。葉
子の美しい顔はやはり写っていたけれども、その温かいしぐさにかかわらず、島村は彼女のうちになにか澄んだ冷た
さを新しく見つけて、鏡の曇って来るのを拭おうともしなかった。
ところがそれから半時間ばかり後に、思いがけなく葉子達も島村と同じ駅に下りたので、彼はまたなにか起るかと
自分にかかわりがあるかのように振り返ったが、プラット・フォウムの寒さに触れると、急に汽車のなかの非礼が恥ず
かしくなって、後も見ずに機関車の前を渡った。
男が葉子の肩につかまって線路へ下りようとした時に、こちらから駅員が手を上げて止めた。
やがて闇から現われて来た長い貨物列車が二人の姿を隠した。
宿屋の客引きの番頭は火事場の消防のようにものものしい雪装束だった。耳をつつみ、ゴムの長靴をはいていた。
待合室の窓から線路の方を眺めて立っている女も、青いマントを着て、その頭巾をかぶっていた。
島村は汽車のなかのぬくみがさめなくて、そとのほんとうの寒さをまだ感じなかったけれども、雪国の冬は初めてだ
から、土地の人のいでたちに先ずおびやかされた。
「そんな恰好をするほど寒いのかね。」
「へい、もうすっかり冬支度です。雪の後でお天気になる前の晩は、特別冷えます。今夜はこれでもう氷点を下ってお
りますでしょうね。」
「これが氷点以下かね。」と、島村は軒端の可愛い氷柱を眺めながら、宿の番頭と自動車に乗った。雪の色が家々の
低い屋根を一層低く見せて、村はしいんと底に沈んでいるようだった。
「なるほどなににさわっても冷たさがちがうよ。」
「去年は氷点下二十何度というのが一番でした。」
「雪は?」
「さあ、普通七八尺ですけれど、多い時は一丈を二三尺超えてますでしょうね。」
「これからだね。」
「これからですよ。この雪はこの間一尺ばかり降ったのが、だいぶ解けて来たところです。」
「解けることもあるのかね。」
「もういつ大雪になるか分りません。」
十二月の初めであった。
島村はしつっこい風邪心地でつまっていた鼻が、頭のしんまですっといちどきに通って、よごれものが洗い落される
ように、水洟がしきりと落ちて来た。
「お師匠さんとこの娘はまだいるかい。」
「へえ、おりますおります。駅におりましたが、御覧になりませんでしたか、濃い青のマントを着て。」
「あれがそうだったの? ――後で呼べるだろう。」
「今夜ですか。」
「今夜だ。」
「今の終列車でお師匠さんの息子が帰るとか言って、迎えに出ていましたよ。」
夕景色の鏡のなかで葉子にいたわられていた病人は、島村が会いに来た女の家の息子だったのだ。
そうと知ると、自分の胸のなかをなにかが通り過ぎたように感じたけれども、このめぐりあわせを、彼はさほど不思
議と思うことはなかった。不思議と思わぬ自分を不思議と思ったくらいのものであった。
指で覚えている女と眼にともし火をつけていた女との間に、なにがあるのかなにが起るのか、島村はなぜかそれが
心のどこかで見えるような気持もする。まだ夕景色の鏡から醒め切らぬせいだろうか。あの夕景色の流れは、さては
時の流れの象徴であったかと、彼はふとそんなことを呟いた。
スキイの季節前の温泉宿は最も客の少い時で、島村が内湯から上って来ると、もう全く寝静まっていた。古びた廊
下は彼の踏む度にガラス戸を微かに鳴らした。その長いはずれの帳場の曲り角に、裾を冷え冷えと黒光りの板の上
へ拡げて、女が高く立っていた。
とうとう芸者に出たのであろうかと、その裾を見てはっとしたけれども、こちらへ歩いて来るでもない、体のどこかを
崩して迎えるしなを作るでもない、じっと動かぬその立ち姿から、彼は遠目にも真面目なものを受け取って、急いで
行ったが、女の傍に立っても黙っていた。女も濃い白粉の顔で微笑もうとすると、反って泣き面になったので、なにも
言わずに二人は部屋の方へ歩き出した。
あんなことがあったのに、手紙も出さず、会いにも来ず、踊の型の本など送るという約束も果さず、女からすれば
笑って忘れられたとしか思えないだろうから、先ず島村の方から詫びかいいわけを言わねばならない順序だったが、
顔を見ないで歩いているうちにも、彼女は彼を責めるどころか、体いっぱいになつかしさを感じていることが知れるの
で、彼は尚更、どんなことを言ったにしても、その言葉は自分の方が不真面目だという響きしか持たぬだろうと思って、
なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれていたが、階段の下まで来ると、
「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。
「そう?」と、女は彼の指を握るとそのまま離さないで手をひくように階段を上って行った。
火燵の前で手を離すと、彼女はさっと首まで赤くなって、それをごまかすためにあわててまた彼の手を拾いながら、
「これが覚えていてくれたの?」
「右じゃない、こっちだよ。」と、女の掌の間から右手を抜いて火燵に入れると、改めて左の握り拳を出した。彼女はす
ました顔で、
「ええ、分ってるわ。」
ふふと含み笑いしながら、島村の掌を拡げて、その上に顔を押しあてた。
「これが覚えていてくれたの?」
「ほう冷たい。こんな冷たい髪の毛初めてだ。」
「東京はまだ雪が降らないの?」
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来
るものか。」
あの時は――雪崩の危険期が過ぎて、新緑の登山季節に入った頃だった。
あけびの新芽も間もなく食膳に見られなくなる。
無為徒食の島村は自然と自身に対する真面目さも失いがちなので、それを呼び戻すには山がいいと、よく一人で
山歩きをするが、その夜も国境の山々から七日振りで温泉場へ下りて来ると、芸者を呼んでくれと言った。ところが、
その日は道路普請の落成祝いで、村の繭倉兼芝居小屋を宴会場に使ったほどの賑かさだから、十二三人の芸者で
は手が足りなくて、とうてい貰えないだろうが、師匠の家の娘なら宴会を手伝いに行ったにしろ、踊を二つ三つ見せた
だけで帰るから、もしかしたら来てくれるかも知れないとのことだった。島村が聞き返すと、三味線と踊の師匠の家に
いる娘は芸者というわけではないが、大きい宴会などには時たま頼まれて行くこともある、半玉がなく、立って踊りた
がらない年増が多いから、娘は重宝がられている、宿屋の客の座敷へなど滅多に一人で出ないけれども、全くの素
人とも言えない、ざっとこんな風な女中の説明だった。
怪しい話だとたかをくくっていたが、一時間ほどして女が女中に連れられて来ると、島村はおやと居住いを直した。
直ぐ立ち上って行こうとする女中の袖を女がとらえて、またそこに坐らせた。
女の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。山々の初夏を見て来た
自分の眼のせいかと、島村は疑ったほどだった。
着つけにどこか芸者風なところがあったが、無論裾はひきずっていないし、やわらかい単衣をむしろきちんと着てい
る方であった。帯だけは不似合に高価なものらしく、それが反ってなにかいたましく見えた。
山の話などはじめたのをしおに、女中が立って行ったけれども、女はこの村から眺められる山々の名もろくに知ら
ず、島村は酒を飲む気にもなれないでいると、女はやはり生れはこの雪国、東京でお酌をしているうちに受け出され、
ゆくすえ日本踊の師匠として身を立てさせてもらうつもりでいたところ、一年半ばかりで旦那が死んだと、思いの外素
直に話した。しかしその人に死別れてから今日までのことが、恐らく彼女のほんとうの身の上話かもしれないが、そ
れは急に打ち明けそうもなかった。十九だと言った。嘘でないなら、この十九が二十一二に見えることに島村ははじ
めてくつろぎを見つけ出して、歌舞伎の話などしかけると、女は彼よりも俳優の芸風や消息に精通していた。そういう
話相手に飢えていてか、夢中でしゃべっているうち、根が花柳界出の女らしいうちとけようを示して来た。男の気心を
一通り知っているようでもあった。それにしても彼は頭から相手を素人ときめているし、一週間ばかり人間とろくに口
をきいたこともない後だから、人なつかしさが温かく溢れて、女に先ず友情のようなものを感じた。山の感傷が女の上
にまで尾をひいて来た。
女は翌日の午後、お湯道具を廊下の外に置いて、彼の部屋へ遊びに寄った。
彼女が坐るか坐らないうちに、彼は突然芸者を世話してくれと言った。
「世話するって?」
「分ってるじゃないか。」
「いやあねえ。私そんなこと頼まれるとは夢にも思って来ませんでしたわ。」と、女はぷいと窓へ立って行って国境の
山々を眺めたが、そのうちに頬を染めて、
「ここにはそんな人ありませんわよ。」
「嘘をつけ。」
「ほんとうよ。」と、くるっと向き直って、窓に腰をおろすと、
「強制することは絶対にありませんわ。みんな芸者さんの自由なんですわ。宿屋でもそういうお世話は一切しないの。
ほんとうなのよ、これ。あなたが誰か呼んで直接話してごらんになるといいわ。」
「君から頼んでみてくれよ。」
「私がどうしてそんなことしなければならないの?」
「友だちだと思ってるんだ。友だちにしときたいから、君は口説かないんだよ。」
「それがお友達ってものなの?」と、女はつい誘われて子供っぽく言ったが、後はまた吐き出すように、
「えらいと思うわ。よくそんなことが私にお頼めになれますわ。」
「なんでもないことじゃないか。山で丈夫になって来たんだよ。頭がさっぱりしないんだ。君とだって、からっとした気持
で話が出来やしない。」
女は瞼を落して黙った。島村はこうなればもう男の厚かましさをさらけ出しているだけなのに、それを物分りよくうな
ずく習わしが女の身にしみているのだろう。その伏目は濃い睫毛のせいか、ほうっと温かく艶めくと島村が眺めてい
るうちに、女の顔はほんの少し左右に揺れて、また薄赤らんだ。
「お好きなのをお呼びなさい。」
「それを君に聞いてるんじゃないか。初めての土地だから、誰がきれいだか分らんさ。」
「きれいって言ったって。」
「若いのがいいね。若い方がなにかにつけてまちがいが少いだろう。うるさくしゃべらんのがいい。ぼんやりしていて、
よごれてないのが。しゃべりたい時は君としゃべるよ。」
「私はもう来ませんわ。」
「馬鹿言え。」
「あら。来ないわよ。なにしに来るの?」
「君とさっぱりつきあいたいから、君を口説かないんじゃないか。」
「あきれるわ。」
「そういうことがもしあったら、明日はもう君の顔を見るのもいやになるかもしれん。話に気乗りするなんてことがなくな
るよ。山から里へ出て来て、せっかく人なつっこいんだからね、君は口説かないんだ。だって、僕は旅行者じゃない
か。」
「ええ。ほんとうね。」
「そうだよ。君にしたって、君が厭だと思う女となら、後で会うのも胸が悪いだろうが、自分が選んでやった女ならまだ
ましだろう。」
「知らないっ。」と、強く投げつけてそっぽを向いたものの、
「それはそうだけれど。」
「なにしたらおしまいさ。味気ないよ。長続きしないだろう。」
「そう。ほんとうにみんなそうだわ。私の生れは港なの。ここは温泉場でしょう。」と、女は思いがけなく素直な調子で、
「お客はたいてい旅の人なんですもの。私なんかまだ子供ですけれど、いろんな人の話を聞いてみても、なんとなく
好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね。別れた後ってそう
らしいわ。向うでも思い出して、手紙をくれたりするのは、たいていそういうんですわ。」
女は窓から立ち上ると、今度は窓の下の畳に柔かく坐った。遠い日々を振り返るように見えながら、急に島村の身
辺に坐ったという顔になった。
女の声にあまり実感が溢れているので、島村は苦もなく女を騙したかと、反ってうしろめたいほどだった。
しかし彼は嘘を言ったわけではなかった。女はとにかく素人である。彼の女ほしさは、この女にそれを求めるまでも
なく、罪のない手軽さですむことだった。彼女は清潔過ぎた。一目見た時から、これと彼女とは別にしていた。
それに彼は夏の避暑地を選び迷っている時だったので、この温泉村へ家族づれで来ようかと思った。そうすれば女
はさいわい素人だから、細君にもいい遊び相手になってもらえて、退屈まぎれに踊の一つも習えるだろう。本気にそ
う考えていた。女に友情のようなものを感じたといっても、彼はその程度の浅瀬を渡っていたのだった。
無論ここにも島村の夕景色の鏡はあったであろう。今の身の上が曖昧な女の後腐れを嫌うばかりでなく、夕暮の汽
車の窓ガラスに写る女の顔のように非現実的な見方をしていたのかもしれない。
彼の西洋舞踊趣味にしてもそうだった。島村は東京の下町育ちなので、子供の時から歌舞伎芝居になじんでいた
が、学生の頃は好みが踊や所作事に片寄って来て、そうなると一通りのことを究めぬと気のすまないたちゆえ、古い
記録を漁ったり、家元を訪ね歩いたりして、やがては日本踊の新人とも知り合い、研究や批評めいた文章まで書くよ
うになった。そうして日本踊の伝統の眠りにも新しい試みのひとりよがりにも、当然なまなましい不満を覚えて、もうこ
の上は自分が実際運動のなかへ身を投じて行くほかないという気持に狩り立てられ、日本踊の若手からも誘いかけ
られた時に、彼はふいと西洋舞踊に鞍替えしてしまった。日本踊は全く見ぬようになった。その代りに西洋舞踊の書
物と写真を集め、ポスタアやプログラムの類まで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりで
は決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないというところにあった。
その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほ
ど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研
究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真
から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西
洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることも
あるのだった。
そういう彼の日本踊などの話が、女を彼に親しませる助けとなったのは、その知識が久し振りで現実に役立ったと
もいうべきありさまだったけれども、やはり島村は知らず識らずのうちに、女を西洋舞踊扱いにしていたのかもしれな
い。
だから、自分の淡い旅愁じみた言葉が、女の生活の急所に触れたらしいのを見ると、女を騙したかとうしろめたいぐ
らいだったが、
「そうしておけば、今度僕が家族を連れて来たって、君と気持よく遊べるさ。」
「ええ、そのことはもうよく分りましたわ。」と、女は声を沈めて微笑むと、少し芸者風にはしゃいで、
「私もそんなのが大好き、あっさりしたのが長続きするわ。」
「だから呼んでくれよ。」
「今?」
「うん。」
「驚きますわ。こんな真昼間になんにもおっしゃれないでしょう?」
「屑が残るといやだよ。」
「あんたそんなこと言うの、この土地を荒稼ぎの温泉場と考えちがいしてらっしゃるのよ。村の様子を見ただけでも分
らないかしら。」と、女はいかにも心外らしく真剣な口振りで、ここにはそういう女のいないことを繰り返して力説した。
島村が疑うと、女はむきになって、しかし一歩譲って、それはどうしようと芸者の勝手だけれども、ただ、うちへことわ
らずに泊れば芸者の責任で、どうなろうとかまってはくれないが、うちへことわっとけば抱主の責任で、どこまでも後を
見てくれる、それだけのちがいだと言う。
「責任てなんだ。」
「子供が出来たり、体が悪くなったりすることですわ。」
島村は自分の頓馬な質問に苦笑いしながら、そのようにのんきな話も、この山の村にはあるかも知れないと思った。
無為徒食の彼は自然と保護色を求める心があってか、旅先の土地の人気には本能的に敏感だが、山から下りて
来ると直ぐこの里のいかにもつましい眺めのうちに、のどかなものを受け取って、宿で聞いてみると、果してこの雪国
でも最も暮しの楽な村の一つだとのことだった。つい近年鉄道の通じるまでは、主に農家の人々の湯治場だったとい
う。芸者のいる家は料理屋とかしるこ屋とか色褪せた暖簾をかけているが、古風な障子のすすけたのを見ると、これ
で客があるのやら、そして日用雑貨の店や駄菓子屋にも、抱えをたった一人置いているのがあって、その主人達は
店のほかに田畑で働くらしかった。師匠の家の娘だからではあろうが、鑑札のない娘がたまに宴会などの手伝いに
出ても、咎め立てる芸者はないのだろう。
「それでどれくらいいるの。」
「芸者さん? 十二三人かしら。」
「なんていう人がいいの?」と、島村が立ち上ってベルを押すと、
「私は帰りますわね?」
「君が帰っちゃ駄目だよ。」
「厭なの。」と、女は屈辱を振り払うように、
「帰りますわ。いいのよ、なんとも思やしませんわ。また来ますわ。」
しかし女中を見ると、なにげなく坐り直した。女中が誰を呼ぼうかと幾度聞いても、女は名指しをしなかった。
ところが間もなく来た十七八の芸者を一目見るなり、島村の山から里へ出た時の女ほしさは味気なく消えてしまっ
た。肌の底黒い腕がまだ骨張っていて、どこか初々しく人がよさそうだから、つとめて興醒めた顔をすまいと芸者の方
を向いていたが、実は彼女のうしろの窓の新緑の山々が目についてならなかった。ものを言うのも気だるくなった。い
かにも山里の芸者だった。島村がむっつりしているので、女は気をきかせたつもりらしく黙って立ち上って行ってしま
うと、一層座が白けて、それでももう一時間くらいは経っただろうから、なんとか芸者を帰す工夫はないかと考えるう
ちに、電報為替の来ていたことを思い出したので郵便局の時間にかこつけて、芸者といっしょに部屋を出た。
しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。
なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。
ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駈け下りて来ると、足もとから黄蝶が二
羽飛び立った。
蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遥かだった。
「どうなすったの。」
女が杉林の陰に立っていた。
「うれしそうに笑ってらっしゃるわよ。」
「止めたよ。」と、島村はまたわけのない笑いがこみ上げて来て、
「止めた。」
「そう?」
女はふいとあちらを向くと、杉林のなかへゆっくり入った。彼は黙ってついて行った。
神社であった。苔のついた狛犬の傍の平な岩に女は腰をおろした。
「ここが一等涼しいの。真夏でも冷たい風がありますわ。」
「ここの芸者って、みなあんなのかね。」
「似たようなものでしょう。年増にはきれいな人がありますわ。」と、うつ向いて素気なく言った。その首に杉林の小暗
い青が映るようだった。
島村は杉の梢を見上げた。
「もういいよ。体の力がいっぺんに抜けちゃって、おかしいようだよ。」
その杉は岩にうしろ手を突いて胸まで反らないと目の届かぬ高さ、しかも実に一直線に幹が立ち並び、暗い葉が空
をふさいでいるので、しいんと静けさが鳴っていた。島村が背を寄せている幹は、なかでも最も年古りたものだったが、
どうしてか北側の枝だけが上まですっかり枯れて、その落ち残った根元は尖った杭を逆立ちに幹へ植え連ねたと見
え、なにか恐しい神の武器のようであった。
「僕は思いちがいしてたんだな。山から下りて来て君を初めて見たもんだから、ここの芸者はきれいなんだろうと、うっ
かり考えてたらしい。」と、笑いながら、七日間の山の健康を簡単に洗濯しようと思いついたのも、実は初めにこの清
潔な女を見たからだったろうかと、島村は今になって気がついた。
西日に光る遠い川を女はじっと眺めていた。手持無沙汰になった。
「あら忘れてたわ。お煙草でしょう。」と、女はつとめて気軽に、
「さっきお部屋へ戻ってみたら、もういらっしゃらないんでしょう。どうなすったかしらと思うと、えらい勢いでお一人山へ
登ってらっしゃるんですもの。窓から見えたの。おかしかったわ。お煙草を忘れていらしたらしいから、持って来てあげ
たんですわ。」
そして彼の煙草を袂から出すとマッチをつけた。
「あの子に気の毒したよ。」
「そんなこと、お客さんの随意じゃないの、いつ帰そうと。」
石の多い川の音が円い甘さで聞えて来るばかりだった。杉の間から向うの山襞の陰るのが見えた。
「君とそう見劣りしない女でないと、後で君と会った時心外じゃないか。」
「知らないわ。負け惜みの強い方ね。」と、女はむっと嘲るように言ったけれども、芸者を呼ぶ前とは全く別な感情が
二人の間に通っていた。
はじめからただこの女がほしいだけだ、それを例によって遠廻りしていたのだと、島村ははっきり知ると、自分が厭
になる一方女がよけい美しく見えて来た。杉林の陰で彼を呼んでからの女は、なにかすっと抜けたように涼しい姿
だった。
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ脣はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮みがなめら
かで、黙っている時も動いているかのような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはず
だが、そうではなく濡れ光っていた。目尻が上りも下りもせず、わざと真直ぐに描いたような眼はどこかおかしいような
がら、短い毛の生えつまった下り気味の眉が、それをほどよくつつんでいた。少し中高の円顔はまあ平凡な輪郭だが、
白い陶器に薄紅を刷いたような皮膚で、首のつけ根もまだ肉づいていないから、美人というよりもなによりも、清潔
だった。
お酌に出たこともある女にしては、こころもち鳩胸だった。
「ほら、いつの間にかこんなに蚋が寄って来ましたわ。」と、女は裾を払って立ち上った。
このまま静けさのなかにいては、もう二人の顔が所在なげに白けて来るばかりだった。
そしてその夜の十時頃だったろうか。女が廊下から大声に島村の名を呼んで、ばたりと投げ込まれたように彼の部
屋へ入って来た。いきなり机に倒れかかると、その上のものを酔った手つきでつかみ散らして、ごくごく水を飲んだ。
この冬スキイ場でなじみになった男達が夕方山を越えて来たのに出会い、誘われるまま宿屋に寄ると、芸者を呼ん
で大騒ぎとなって、飲まされてしまったとのことだった。
頭をふらふらさせながら一人でとりとめなくしゃべり立ててから、
「悪いから行って来るわね。どうしたかと捜してるわ。後でまた来るわね。」と、よろけ出て行った。
一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突きあたったり倒れたりして来るらしく、
「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く叫んだ。
「ああ、見えない。島村さあん。」
それはもうまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった。島村は思いがけなかった。しかし宿屋中に響き
渡るにちがいない金切声だったから、当惑して立ち上ると、女は障子紙に指をつっこんで桟をつかみ、そのまま島村
の体へぐらりと倒れた。
「ああ、いたわね。」
女は彼ともつれて坐って、もたれかかった。
「酔ってやしないよ。ううん、酔ってるもんか。苦しい。苦しいだけなのよ。性根は確かだよ。ああっ、水飲みたい。ウイ
スキイとちゃんぽんに飲んだのがいけなかったの。あいつ頭へ来る、痛い。あの人達安壜を買って来たのよ。それ知
らないで。」などと言って、掌でしきりに顔をこすっていた。
外の雨の音が俄に激しくなった。
少しでも腕をゆるめると、女はぐたりとした。女の髪が彼の頬で押しつぶれるほどに首をかかえているので、手は懐
に入っていた。
彼がもとめる言葉には答えないで、女は両腕を閂のように組んでもとめられたものの上をおさえたが、酔いしびれ
て力が入らないのか、
「なんだ、こんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの。」と、いきなり自分の肘にかぶりついた。
彼が驚いて離させると、深い歯形がついていた。
しかし、女はもう彼の掌にまかせて、そのまま落書をはじめた。好きな人の名を書いて見せると言って、芝居や映画
の役者の名前を二三十も並べてから、今度は島村とばかり無数に書き続けた。
島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た。
「ああ、安心した。安心したよ。」と、彼はなごやかに言って、母のようなものさえ感じた。
女はまた急に苦しみ出して、身をもがいて立ち上ると、部屋の向うの隅に突っ伏した。
「いけない、いけない。帰る、帰る。」
「歩けるもんか。大雨だよ。」
「跣足で帰る。這って帰る。」
「危いよ。帰るなら送ってやるよ。」
宿は丘の上で、嶮しい坂がある。
「帯をゆるめるか、少し横になって、醒ましたらいいだろう。」
「そんなことだめ。こうすればいいの、慣れてる。」と、女はしゃんと坐って胸を張ったが、息が苦しくなるばかりだった。
窓をあけて吐こうとしても出なかった。身をもんで転りたいのを噛みこらえているありさまが続いて、時々意志を奮い
起すように、帰る帰ると繰り返しながら、いつか午前二時を過ぎた。
「あんたは寝なさい。さあ、寝なさいったら。」
「君はどうするんだ。」
「こうやってる。少し醒まして帰る。夜のあけないうちに帰る。」と、いざり寄って島村を引っぱった。
「私にかまわないで寝なさいってば。」
島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、
「起きなさい。ねえ、起きなさいったら。」
「どうしろって言うんだ。」
「やっぱり寝てなさい。」
「なにを言ってるんだ。」と、島村は立ち上った。
女を引き摺って行った。
やがて、顔をあちらに反向けこちらに隠していた女が、突然激しく脣を突き出した。
しかしその後でも、寧ろ苦痛を訴える譫言のように、
「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったじゃないの。」と、幾度繰り返したかしれなかった。
島村はその真剣な響きに打たれ、額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えている意志の強さには、味気なく白
けるほどで、女との約束を守ろうかとも思った。
「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃ
ないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの。」
酔いで半ば痺れていた。
「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ。」などと
口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。
しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、ふと思い出して突き刺すように、
「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね。」
「笑ってやしない。」
「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ。」と、女はうつぶせになってむせび泣いた。
でも直ぐに泣き止むと、自分をあてがうように柔かくして、人なつっこくこまごまと身の上などを話し出した。酔いの
苦しさは忘れたように抜けたらしかった。今のことにはひとことも触れなかった。
「あら、お話に夢中になって、ちっとも知らなかったわ。」と、今度はぽうっと微笑んだ。
夜のあけないうちに帰らねばならないと言って、
「まだ暗いわね。この辺の人はそれは早起きなの。」と、幾度も立ち上って窓をあけてみた。
「まだ人の顔は見えませんわね。今朝は雨だから、誰も田へ出ないから。」
雨のなかに向うの山や麓の屋根の姿が浮び出してからも、女は立ち去りにくそうにしていたが、宿の人の起きる前
に髪を直すと、島村が玄関まで送ろうとするのも人目を恐れて、あわただしく逃げるように、一人で抜け出して行った。
そして島村はその日東京に帰ったのだった。
「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来
るものか。後でも笑やしなかったよ。」
女がふっと顔を上げると、島村の掌に押しあてていた瞼から鼻の両側へかけて赤らんでいるのが、濃い白粉を透し
て見えた。それはこの雪国の夜の冷たさを思わせながら、髪の色の黒が強いために、温かいものに感じられた。
その顔は眩しげに含み笑いを浮べていたが、そうするうちにも「あの時」を思い出すのか、まるで島村の言葉が彼
女の体をだんだん染めて行くかのようだった。女はむっとしてうなだれると、襟をすかしているから、背なかの赤くなっ
ているのまで見え、なまなましく濡れた裸を剥き出したようであった。髪の色との配合のために、尚そう思われるのか
もしれない。前髪が細かく生えつまっているというのではないけれども、毛筋が男みたいに太くて、後れ毛一つなく、
なにか黒い鉱物の重ったいような光だった。
今さっき手に触れて、こんな冷たい髪の毛は初めてだとびっくりしたのは、寒気のせいではなく、こういう髪そのもの
のせいであったかと思えて、島村が眺め直していると、女は火燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか終らな
い。
「なにを勘定してるんだ。」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。
「五月の二十三日ね。」
「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ。」
「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ。」
「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね。」
「日記を見れば、直ぐ分るわ。」
「日記? 日記をつけてるの?」
「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かし
いわ。」
「いつから。」
「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にならないでしょう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳
にね、定規をあてて、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細く削ったとみえて、線が綺麗に揃ってるんですの。そうして
帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっちり書いてあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末に
使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、この頃は巻紙へじかでしょう。」
「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい。」
「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。いつもお座敷から帰って、寝間着に着替えてつけたのね。遅く帰
るでしょう。ここまで書いて、中途で眠ってしまったなんて、今読んでも分るところがあるの。」
「そうかねえ。」
「だけど、毎日毎日ってんじゃなく、休む日もあるのよ。こんな山の中だし、お座敷へ出たって、きまりきってるでしょう。
今年は頁毎に日附の入ったのしか買えなくて、失敗したわ。書き出せばどうしても長くなることがあるもの。」
日記の話よりも尚島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、
そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。
「感想を書いとくんだね?」
「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのもので
すわ。」
「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか。」
「しようがありませんわ。」
「徒労だね。」
「そうですわ。」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。
全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとした途端に、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは
女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だ
と叩きつけると、なにか反って彼女の存在が純粋に感じられるのであった。
この女の小説の話は、日常使われる文学という言葉とは縁がないもののように聞えた。婦人雑誌を交換して読むく
らいしか、この村の人との間にそういう友情はなく、後は全く孤立して読んでいるらしかった。選択もなく、さほどの理
解もなく、宿屋の客間などでも小説本や雑誌を見つける限り、借りて読むという風であるらしかったが、彼女が思い出
すままに挙げる新しい作家の名前など、島村の知らないのが少くなかった。しかし彼女の口振りは、まるで外国文学
の遠い話をしているようで、無慾な乞食に似た哀れな響きがあった。自分が洋書の写真や文字を頼りに、西洋の舞
踊を遥かに夢想しているのもこんなものであろうと、島村は思ってみた。
彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なので
あろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみと
なったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。
しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、
都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の
眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷
に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きした血色だった。
いずれにしろ、島村は彼女を見直したことにはなるので、相手が芸者というものになった今は反って言い出しにく
かった。
あの時彼女は泥酔していて、痺れて役に立たぬ腕を歯痒いがって、
「なんだこんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの。」と、肘に激しくかぶりついたほどであった。
足が立たないので、体をごろんごろん転がして、
「決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。」と言った言葉も思い出されて
来て、島村はためらっていると女は素早く気づいて撥ね返すように、
「零時の上りだわ。」と、ちょうどその時聞えた汽笛に立ち上って、思い切り乱暴に紙障子とガラス戸をあけ、手摺へ
体を投げつけざま窓に腰かけた。
冷気が部屋へいちどきに流れ込んだ。汽車の響きは遠ざかるにつれて、夜風のように聞えた。
「おい、寒いじゃないか。馬鹿。」と、島村も立ち上って行くと風はなかった。
一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、
見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群が目へ近づいて来る
につれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さ
がありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。
島村が近づくのを知ると、女は手摺に胸を突っ伏せた。それは弱々しさではなく、こういう夜を背景にして、これより
頑固なものはないという姿であった。島村はまたかと思った。
しかし、山々の色は黒いにかかわらず、どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた。そうすると山々が
透明で寂しいものであるかのように感じられて来た。空と山とは調和などしていない。
島村は女の咽仏のあたりを掴んで、
「風邪を引く。こんなに冷たい。」と、ぐいとうしろへ起そうとした。女は手摺にしがみつきながら声をつまらせて、
「私帰るわ。」
「帰れ。」
「もうしばらくこうさしといて。」
「それじゃ僕はお湯に入って来るよ。」
「いやよ。ここにいなさい。」
「窓をしめてくれ。」
「もうしばらくこうさしといて。」
村は鎮守の杉林の陰に半ば隠れているが、自動車で十分足らずの停車場の燈火は、寒さのためぴいんぴいんと
音を立てて毀れそうに瞬いていた。
女の頬も、窓のガラスも、自分のどてらの袖も、手に触るものは皆、島村にはこんな冷たさは初めてだと思われた。
足の下の畳までが冷えて来るので、一人で湯に行こうとすると、
「待って下さい。私も行きます。」と、今度は女が素直について来た。
彼の脱ぎ散らすものを女が乱れ籠に揃えているところへ、男の泊り客が入って来たが、島村の胸の前へすくんで顔
を隠した女に気がつくと、
「あっ、失礼しました。」
「いいえ、どうぞ。あっちの湯へ入りますから。」と、島村はとっさに言って、裸のまま乱れ籠を抱えて隣りの女湯の方
へ行った。女は無論夫婦面でついて来た。島村は黙って後も見ずに温泉へ飛び込んだ。安心して高笑いがこみ上げ
て来るので、湯口に口をあてて荒っぽく嗽いをした。
部屋に戻ってから、女は横にした首を軽く浮かして鬢を小指で持ち上げながら、
「悲しいわ。」と、ただひとこと言っただけであった。
女が黒い眼を半ば開いているのかと、近々のぞきこんでみると、それは睫毛であった。
神経質な女は一睡もしなかった。
固い女帯をしごく音で、島村は目が覚めたらしかった。
「早く起して悪かったわ。まだ暗いわね。ねえ、見て下さらない?」と、女は電燈を消した。
「私の顔が見える? 見えない?」
「見えないよ。まだ夜が明けないじゃないか。」
「嘘よ。よく見て下さらなければ駄目よ。どう?」と、女は窓を明け放して、
「いけないわ。見えるわね。私帰るわ。」
明け方の寒さに驚いて、島村が枕から頭を上げると、空はまだ夜の色なのに、山はもう朝であった。
「そう、大丈夫。今は農家が暇だから、こんなに早く出歩く人はないわ。でも山へ行く人があるかしら。」と、ひとりごと
を言いながら、女は結びかかった帯をひきずって歩き、
「今の五時の下りでお客がなかったわね。宿の人はまだまだ起きないわ。」
帯を結び終ってからも、女は立ったり坐ったり、そうしてまた窓の方ばかり見て歩き廻った。それは夜行動物が朝を
恐れて、いらいら歩き廻るような落ちつきのなさだった。妖しい野性がたかぶって来るさまであった。
そうするうちに部屋のなかまで明るんで来たか、女の赤い頬が目立って来た。島村は驚くばかりあざやかな赤い色
に見とれて、
「頬っぺたが真赤じゃないか、寒くて。」
「寒いんじゃないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入ると直ぐ、足の先までぽっぽして来るの。」と、枕もとの鏡台
に向って、
「とうとう明るくなってしまったわ。帰りますわ。」
島村はその方を見て、ひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な
頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。
もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫
光りの黒を強めた。
雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い
泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来
たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根
に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。
やがて年の暮から正月になれば、あの道が吹雪で見えなくなる。山袴にゴムの長靴、マントにくるまり、ヴェエルを
かぶって、お座敷へ通わねばならぬ。その頃の雪の深さは一丈もある。そう言って、丘の上の宿の窓から、女が夜明
け前に見下していた坂道を、島村は今下りて行くのであったけれども、道端に高く干した襁褓の下に、国境の山々が
見えて、その雪の輝きものどかであった。青い葱はまだ雪に埋もれてはいなかった。
田圃で村の子供がスキイに乗っていた。
街道の村へ入ると、静かな雨滴のような音が聞えていた。
軒端の小さい氷柱が可愛く光っていた。
屋根の雪を落す男を見上げて、
「ねえ、ついでにうちのも少し落してくれない?」と、湯帰りの女が眩しそうに濡れ手拭で額を拭いた。スキイ季節を目
指して早くも流れこんで来た女給であろう。隣家はガラス窓の色絵も古び、屋根のゆがんだカフエであった。
たいていの家の屋根は細かい板で葺いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日のあたる半面だけ雪の
なかに黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々
はまたその石の感じに似た姿で、低い屋並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。
子供の群が溝の氷を抱き起して来ては、道に投げて遊んでいた。脆く砕け飛ぶ際に光るのが面白いのだろう。日
光のなかに立っていると、その氷の厚さが嘘のように思われて、島村はしばらく眺め続けた。
十三四の女の子が一人石垣にもたれて、毛糸を編んでいた。山袴に高下駄を履いていたが、足袋はなく、赤らんだ
素足の裏に皸が見えた。傍の粗朶の束に乗せられて、三歳ばかりの女の子が無心に毛糸の玉を持っていた。小さ
い女の子から大きい女の子へ引っぱられる一筋の灰色の古毛糸も暖かく光っていた。
七八軒先きのスキイ製作所から鉋の音が聞える。その反対側の軒陰に芸者が五六人立話をしていた。今朝になっ
て宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと、やっぱり彼女は彼の歩いて来るのを見ていたらし
く、一人生真面目な顔つきであった。きっと真赤になるにきまっている、なにげない風を装ってくれるようにと、島村が
考える暇もなく、駒子はもう咽まで染めてしまった。それなら後向きになればいいのに、窮屈そうに眼を伏せながら、
しかも彼の歩みにつれで、その方へ少しずつ顔を動かして来る。
島村も頬が火照るようで、さっさと通り過ぎると、直ぐに駒子が追っかけて来た。
「困るわ、あんなとこお通りになっちゃ。」
「困るって、こっちこそ困るよ。あんなに勢揃いしてられると、恐ろしくて通れんね。いつもああかい。」
「そうね、おひる過ぎは。」
「顔を赤くしたり、ばたばた追っかけて来たりすれば、なお困るじゃないか。」
「かまやしない。」と、はっきり言いながら駒子はまた赤くなると、その場に立ち止まってしまって、道端の柿の木につ
かまった。
「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ。」
「君の家がここか。」
「ええ。」
「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね。」
「あれは焼いてから死ぬの。」
「だって君の家、病人があるんだろう。」
「あら。よく御存じね。」
「昨夜、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人の直ぐ近くに乗って来たん
だよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが附き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行っ
た人? 東京の人? まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ。」
「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの。」と、駒子は気色ばんだ。
「細君かね。」
しかしそれには答えないで、
「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人。」
島村は女のこういう鋭さを好まなかった。けれども女をこんな風に鋭くするわけは、島村にも駒子にもないはずだと
思われるので、それでは駒子の性格の現われかとも見られたが、とにかく繰り返して突っ込まれると、彼は急所にさ
わられたような気はして来るのであった。今朝山の雪を写した鏡のなかに駒子を見た時も、無論島村は夕暮の汽車
の窓ガラスに写っていた娘を思い出したのだったのに、なぜそれを駒子に話さなかったのだろうか。
「病人がいたっていいですわ。私の部屋へは誰も上って来ませんわ。」と、駒子は低い石垣のなかへ入った。
右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小
さい蓮池の氷は縁に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑らな
屋根は板が腐って軒に波を描いていた。
土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。
上の部屋もほんとうに屋根裏であった。
「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう。」
「これで、酔っ払って帰って、よく梯子を落ちないね。」
「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ。」と、駒子は火燵蒲団に手
を入れてみて、火を取りに立った。
島村は不思議な部屋のありさまを見廻した。低い明り窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は
新しく貼り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にも丹念に半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、
頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。壁の
向側はどうなってるのだろうと考えると、この部屋が宙に吊るさっているような気がして来て、なにか不安定であった。
しかし壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。
蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。
置火燵には山袴とおなじ木綿縞の蒲団がかかっていた。箪笥は古びているが、駒子の東京暮しの名残か、柾目の
みごとな桐だった。それと不似合に粗末な鏡台だった。朱塗の裁縫箱がまた贅沢なつやを見せていた。壁に板を
段々に打ちつけたのは、本箱なのであろう、めりんすのカアテンが垂らしてあった。
昨夜の座敷着が壁にかかって、襦袢の赤い裏を開いていた。
駒子は十能を持って、器用に梯子を上って来ると、
「病人の部屋からだけれど、火は綺麗だって言いますわ。」と、結いたての髪を伏せながら、火燵の灰を掻き起して、
病人は腸結核で、もう故郷へ死にに帰ったのだと話した。
故郷とはいえ、息子はここで生れたのではない。ここは母の村なのだ。母は港町で芸者を勤め上げた後も、踊の師
匠としてそこにとどまっていたが、まだ五十前で中風をわずらい、療養かたがたこの温泉へ帰って来た。息子は小さ
い時から機械が好きで、せっかく時計屋に入っていたから、港町に残して置いたところ、間もなく東京に出て、夜学に
通っていたらしい。体の無理が重なったのだろう。今年二十六という。
それだけを駒子は一気に話したけれども、息子を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にい
るのかというようなことには、やはり一言も触れなかった。
しかしそれだけでも、宙に吊るされたようなこの部屋の工合では、駒子の声が八方へ洩れそうで、島村は落ちつい
ていられなかった。
門口を出しなに、ほの白いものが眼について振り返ると、桐の三味線箱だった。実際よりも大きく長いものに感じら
れて、これを座敷へ担いで行くなんて嘘のような気がしていると、煤けた襖があいて、
「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないわ?」
澄み上って悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返って来そうであった。
島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。
「いいわ。」と、駒子が答えると、葉子は山袴でひょいと三味線を跨いだ。ガラスの溲瓶をさげていた。
駅長と知合いらしい昨夜の話振りでも、この山袴でも、葉子がここらあたりの娘なことは明らかだが、派手な帯が半
ば山袴の上に出ているので、山袴の蒲色と黒とのあらい木綿縞はあざやかに引き立ち、めりんすの長い袂も同じわ
けで艶めかしかった。山袴の股は膝の少し上で割れているから、ゆっくり膨らんで見え、しかも硬い木綿がひきしまっ
て見え、なにか安らかであった。
しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。
島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように
冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向うを
流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぽうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えた、その昨夜
の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮んだ、駒子の赤い頬も思い
出されて来る。
そうして足が早くなった。小肥りの白い足にかかわらず、登山を好む島村は山を眺めながら歩くと放心状態となって、
知らぬうちに足が早まる。いつでも忽ち放心状態に入り易い彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工の
ものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった。
今出て来たばかりの駒子の部屋までが、もうその遠い世界のように思われる。そういう自分にさすが驚いて、坂を
登りつめると、女按摩が歩いていた。島村はなにかつかまえるように、
「按摩さん、揉んでもらえないかね。」
「そうですね。今何時ですかしら。」と、竹の杖を小脇に抱えると、右手で帯の間から蓋のある懐中時計を出して、左
の指先で文字盤をさぐりながら、
「二時三十五分過ぎでございますね。三時半に駅の向うへ行かんなりませんけれども、少し後れてもいいかな。」
「よく時計の時間が分るね。」
「はい、ガラスが取ってございますから。」
「さわると字が分るかね。」
「字は分りませんけれども。」と、女持ちには大きい銀時計をもう一度出して蓋をあけると、ここが十二時ここが六時、
その真中が三時という風に指で抑えて見せ、
「それから割り出して、一分までは分らなくても、二分とはまちがいません。」
「そうかね。坂道なんか辷らないかね。」
「雨が降れば娘が迎えに来てくれます。夜は村の人を揉むで、もうここへは登って来ません。亭主が出さないのだと、
宿の女中さんが言うからかないませんわ。」
「子供さんはもう大きいの?」
「はい。上の女は十三になります。」などと話しながら部屋に来て、しばらく黙って揉んでいたが、遠い座敷の三味線
の音に首を傾けた。
「誰かな。」
「君は三味線の音で、どの芸者か皆分るかい。」
「分る人もあります。分らんのもあります。旦那さん、ずいぶん結構なお身分で、柔かいお体でございますね。」
「凝ってないだろう。」
「凝って、首筋が凝っております。ちょうどよい工合に太ってらっしゃいますが、お酒は召し上りませんね。」
「よく分るな。」
「ちょうど旦那さまと同じような姿形のお客さまを、三人知っております。」
「至極平凡な体だがね。」
「なんでございますね、お酒を召し上らないと、ほんとうに面白いということがございませんね、なにもかも忘れてしま
う。」
「君の旦那さんは飲むんだね。」
「飲んで困ります。」
「誰だか下手な三味線だね。」
「はい。」
「君は弾くんだろう。」
「はい。九つの時から二十まで習いましたけれど、亭主を持ってから、もう十五年も鳴らしません。」
盲は年より若く見えるものであろうかと島村は思いながら、
「小さい時に稽古したのは確かだね。」
「手はすっかり按摩になってしまいましたけれど、耳はあいております。こうやって芸者衆の三味線を聞いてますと、
じれったくなったりして、はい、昔の自分のような気がするんでございましょうね。」と、また耳を傾けて、
「井筒屋のふみちゃんかしら。一番上手な子と一番下手な子は、一番よく分りますね。」
「上手な人もいるかい。」
「駒ちゃんという子は、年が若いけれど、この頃達者になりましたねえ。」
「ふうん。」
「旦那さん、御存じなんですね。そりゃ上手と言っても、こんな山ん中でのことですから。」
「いや知らないけれど、師匠の息子が帰るのと、昨夜同じ汽車でね。」
「おや、よくなって帰りましたか。」
「よくないようだったね。」
「はあ? あの息子さんが東京で長患いしたために、その駒子という子がこの夏芸者に出てまで、病院の金を送った
そうですが、どうしたんでしょう。」
「その駒子って?」
「でもまあ、尽すだけ尽しておけば、いいなずけだというだけでも、後々までねえ。」
「いいなずけって、ほんとうのことかね。」
「はい。いいなずけだそうでございますよ。私は知りませんが、そういう噂でございますね。」
温泉宿で女按摩から芸者の身の上を聞くとは、余りに月並で、反って思いがけないことであったが、駒子がいいな
ずけのために芸者に出たというのも、余りに月並な筋書で、島村は素直にのみこめぬ心地であった。それは道徳的
な思いに突き当ったせいかもしれなかった。
彼は話に深入りして聞きたく思いはじめたけはいで、按摩は黙ってしまった。
駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島
村の頭にはまた徒労という言葉が浮んで来た。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落してまで療養さ
せたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。
駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにか反って彼女の存在が純
粋に感じられて来るのだった。
この虚偽の痲痺には、破廉恥な危険が匂っていて、島村はじっとそれを味わいながら、按摩が帰ってからも寝転ん
でいると、胸の底まで冷えるように思われたが、気がつけば窓を明け放したままなのであった。
山峡は日陰となるのが早く、もう寒々と夕暮色が垂れていた。そのほの暗さのために、まだ西日が雪に照る遠くの
山々はすうっと近づいて来たようであった。
やがて山それぞれの遠近や高低につれて、さまざまの襞の陰を深めて行き、峰にだけ淡い日向を残す頃になると、
頂の雪の上は夕焼空であった。
村の川岸、スキイ場、社など、ところどころに散らばる杉木立が黒々と目立ち出した。
島村は虚しい切なさに曝されているところへ、温い明りのついたように駒子が入って来た。
スキイ客を迎える準備の相談会がこの宿にある。その後の宴会に呼ばれたと言った。火燵に入ると、いきなり島村
の頬を撫で廻しながら、
「今夜は白いわ。変だわ。」
そして揉みつぶすように柔かい頬の肉を掴んで、
「あんたは馬鹿だ。」
もう少し酔っているらしかったが、宴会を終えて来た時は、
「知らん。もう知らん。頭痛い。頭痛い。ああ、難儀だわ、難儀。」と、鏡台の前に崩れ折れると、おかしいほど一時に
酔いが顔へ出た。
「水飲みたい、水頂戴。」
顔を両手で抑えて、髪の毀れるのもかまわずに倒れていたが、やがて坐り直してクリイムで白粉を落すと、余りに
真赤な顔が剥き出しになったので、駒子も自分ながら楽しげに笑い続けた。面白いほど早く酒が醒めて来た。寒そう
に肩を顫わせた。
そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話しはじめた。
「気ちがいになるのかと心配だったわ。なにか一生懸命に思いつめてるんだけれど、なにを思いつめてるか、自分に
よく分らないの。怖いでしょう。ちっとも眠れないし、それでお座敷へ出た時だけしゃんとするのよ。いろんな夢を見た
わ。御飯もろくに食べられないものね。畳へね、縫針を突き刺したり抜いたり、そんなこといつまでもしてるのよ、暑い
日中にさ。」
「芸者に出たのは何月。」
「六月。もしかしたら私、今頃は浜松へ行ってたかしれないのよ。」
「世帯を持って?」
駒子はうなずいた。浜松の男に結婚してくれと追い廻されたが、どうしても男が好きになれないで、ずいぶん迷った
と言った。
「好きでないものを、なにも迷うことないじゃないか。」
「そうはいかないわ。」
「結婚て、そんな力があるかな。」
「いやらしい。そうじゃないけれど、私は身のまわりがきちんとかたづいてないと、いられないの。」
「うん。」
「あんた、いい加減な人ね。」
「だけど、その浜松の人となにかあったのかい。」
「あれば迷うことないじゃないの。」と、駒子は言い放って、
「でも、お前がこの土地にいる間は、誰とも結婚させない。どんなことしても邪魔してやるって言ったわよ。」
「浜松のような遠くにいてね。君はそんなことを気にしてるの。」
駒子はしばらく黙って、自分の体の温かさを味わうような風にじっと横たわっていたが、ふいとなにげなく、
「私妊娠していると思ってたのよ。ふふ、今考えるとおかしくって、ふふふ。」と、含み笑いしながら、くっと身をすくめる
と、両の握り拳で島村の襟を子供みたいに掴んだ。
閉じ合わした濃い睫毛がまた、黒い目を半ば開いているように見えた。
翌る朝、島村が目を覚ますと、駒子はもう火鉢へ片肘突いて古雑誌の裏に落書していたが、
「ねえ、帰れないわ。女中さんが火を入れに来て、みっともない、驚いて飛び起きたら、もう障子に日があたってるん
ですもの。昨夜酔ってたから、とろとろと眠っちゃったらしいわ。」
「幾時。」
「もう八時。」
「お湯へ行こうか。」と、島村は起き上った。
「いや、廊下で人に会うから。」と、まるでおとなしい女になってしまって、島村が湯から帰った時は、手拭を器用にか
ぶって、かいがいしく部屋の掃除をしていた。
机の足や火鉢の縁まで癇性に拭いて、灰を掻きならすのがもの馴れた様子であった。
島村が火燵へ足を入れたままごろ寝して煙草の灰を落すと、それを駒子はハンカチでそっと拭き取っては、灰皿を
もって来た。島村は朝らしく笑い出した。駒子も笑った。
「君が家を持ったら、亭主は叱られ通しだね。」
「なにも叱りゃしないじゃないの。洗濯するものまで、きちんと畳んでおくって、よく笑われるけれど、性分ね。」
「箪笥のなかを見れば、その女の性質が分るって言うよ。」
部屋いっぱいの朝日に温まって飯を食いながら、
「いいお天気。早く帰って、お稽古をすればよかったわ。こんな日は音がちがう。」
駒子は澄み深まった空を見上げた。
遠い山々は雪が煙ると見えるような柔かい乳色につつまれていた。
島村は按摩の言葉を思い合わせて、ここで稽古をすればいいと言うと、駒子は直ぐに立ち上って、着替えといっしょ
に長唄の本を届けるように家へ電話をかけた。
昼間見たあの家に電話があるのかと思うと、また島村の頭には葉子の眼が浮んで来て、
「あの娘さんが持って来るの?」
「そうかもしれないわ。」
「君はあの、息子さんのいいなずけだって?」
「あら。いつそんなことを聞いたの。」
「昨日。」
「おかしな人。聞いたら聞いたで、なぜ昨夜そう言わなかったの。」と、しかし今度は昨日の昼間とちがって、駒子は清
潔に微笑んでいた。
「君を軽蔑してなければ、言いにくいさ。」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い。」
「それ、僕が言い出せば、話をそらすじゃないか。」
「そらしゃしないわ。それで、あんたそれをほんとうにしたの?」
「ほんとうにした。」
「またあんた嘘言うわ。ほんとうにしないくせして。」
「そりゃ、のみこめない気はしたさ。だけど、君がいいなずけのために芸者になって、療養費を稼いでると言うんだか
らね。」
「いやらしい、そんな新派芝居みたいなこと。いいなずけは嘘よ。そう思ってる人が多いらしいわ。別に誰のために芸
者になったってわけじゃないけれど、するだけのことはしなければいけないわ。」
「謎みたいなことばかり言ってる。」
「はっきり言いますわ。お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。
心のなかだけのことで、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も
薄々知ってたの。だけど、二人は別になんでもなかった。ただそれだけ。」
「幼馴染だね。」
「ええ、でも、別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送ってくれた。一番古い日
記の一番初めに、そのことが書いてあるわ。」
「二人ともその港町にいたら、今頃は一緒になってたかもしれないね。」
「そんなことはないと思うわ。」
「そうかねえ。」
「人のこと心配しなくてもいいわよ。もうじき死ぬから。」
「それによそへ泊るのなんかよくないね。」
「あんた、そんなこと言うのがよくないのよ。私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」
島村は返す言葉がなかった。
しかし、駒子がやはり葉子のことに一言も触れないのは、なぜであろうか。
また葉子にしても、汽車の中でまで幼い母のように、我を忘れてあんなにいたわりながらつれて帰った男のなにか
である駒子のところへ、朝になって着替えを持って来るのは、どういう思いであろうか。
島村が彼らしく遠い空想をしていると、
「駒ちゃん、駒ちゃん。」と、低くても澄み通る、あの葉子の美しい呼び声が聞えた。
「はい、御苦労さま。」と、駒子は次の間の三畳へ立って行って、
「葉子さんが来てくれたの? まあ、こんなにみんな、重かったのに。」
葉子は黙って帰ったらしかった。
駒子は三の糸を指ではじき切って附け替えてから、調子を合わせた。その間にもう彼女の音の冴えは分ったが、火
燵の上に嵩張った風呂敷包を開いてみると、普通の稽古本の外に、杵家弥七の文化三味線譜が二十冊ばかり入っ
ていたので、島村は意外そうに手に取って、
「こんなもので稽古したの?」
「だって、ここにはお師匠さんがないんですもの。しかたがないわ。」
「うちにいるじゃないか。」
「中風ですわ。」
「中風だって、口で。」
「その口もきけなかったの。まだ踊は、動く方の左手で直せるけれど、三味線は耳がうるさくなるばっかり。」
「これで分るのかね。」
「よく分るわ。」
「素人ならとにかく芸者が、遠い山のなかで、殊勝な稽古をしてるんだから、音譜屋さんも喜ぶだろう。」
「お酌は踊が主だし、それからも東京で稽古させてもらったのは、踊だったの。三味線はほんの少しうろ覚えですもの、
忘れたらもう浚ってくれる人もなし、音譜が頼りですわ。」
「唄は?」
「いや、唄は。そう、踊の稽古の時に聞き馴れたのは、どうにかいいけれど、新しいのはラジオや、それからどこかで
聞き覚えて、でもどうだか分らないわ。我流が入ってて、きっとおかしいでしょう。それに馴染みの人の前では、声が
出ないの。知らない人だと、大きな声で歌えるけれど。」と、少しはにかんでから、唄を待つ風に、さあと身構えして、
島村の顔を見つめた。
島村ははっと気押された。
彼は東京の下町育ちで、幼い時から歌舞伎や日本踊になじむうちに長唄の文句くらいは覚え、自ずと耳慣れてい
るが、自分で習いはしなかった。長唄といえば直ぐ踊の舞台が思い浮び、芸者の座敷を思い出さぬという風である。
「いやだわ。一番肩の張るお客さま。」と、駒子はちらっと下脣を噛んだが、三味線を膝に構えると、それでもう別の人
になるのか、素直に稽古本を開いて、
「この秋、譜で稽古したのね。」
勧進帳であった。
忽ち島村は頬から鳥肌立ちそうに涼しくなって、腹まで澄み通って来た。たわいなく空にされた頭のなかいっぱいに、
三味線の音が鳴り渡った。全く彼は驚いてしまったと言うよりも叩きのめされてしまったのである。敬虔の念に打たれ
た、悔恨の思いに洗われた。自分はただもう無力であって、駒子の力に思いのまま押し流されるのを快いと身を捨て
て浮ぶよりしかたがなかった。
十九や二十の田舎芸者の三味線なんか高が知れてるはずだ、お座敷だのにまるで舞台のように弾いてるじゃない
か、おれ自身の山の感傷に過ぎんなどと、島村は思ってみようとしたし、駒子はわざと文句を棒読みしたり、ここは
ゆっくり、面倒臭いと言って飛ばしたりしたが、だんだん憑かれたように声も高まって来ると、撥の音がどこまで強く冴
えるのかと、島村はこわくなって、虚勢を張るように肘枕で転がった。
勧進帳が終ると島村はほっとして、ああ、この女はおれに惚れているのだと思ったが、それがまた情なかった。
「こんな日は音がちがう。」と、雪の晴天を見上げて、駒子が言っただけのことはあった。空気がちがうのである。劇場
の壁もなければ、聴衆もなければ、都会の塵埃もなければ、音はただ純粋な冬の朝に澄み通って、遠くの雪の山々
まで真直ぐに響いて行った。
いつも山峡の大きい自然を、自らは知らぬながら相手として孤独に稽古するのが、彼女の習わしであったゆえ、撥
の強くなるは自然である。その孤独は哀愁を踏み破って、野性の意力を宿していた。幾分下地があるとは言え、複雑
な曲を音譜で独習し、譜を離れて弾きこなせるまでには、強い意志の努力が重なっているにちがいない。
島村には虚しい徒労とも思われる、遠い憧憬とも哀れまれる、駒子の生き方が、彼女自身への価値で、凛と撥の
音に溢れ出るのであろう。
細かい手の器用なさばきは耳に覚えていず、ただ音の感情が分る程度の島村は、駒子にはちょうどよい聞き手な
のであろう。
三曲目に都鳥を弾きはじめた頃は、その曲の艶な柔らかさのせいもあって、島村はもう鳥肌立つような思いは消え、
温かく安らいで、駒子の顔を見つめた。そうするとしみじみ肉体の親しみが感じられた。
細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生きと上気しているので、私はここにいますという囁きのように
見えた。あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしているようで、そのくせ
唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるという風に、彼女の体の魅力そっくりであった。下り気味の眉の下
に、目尻が上りもせず下りもせず、わざと真直ぐ描いたような眼は、今は濡れ輝いて、幼なげだった。白粉はなく、都
会の水商売で透き通ったところへ、山の色が染めたとでもいう、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさの皮膚は、
首までほんのり血の色が上っていて、なによりも清潔だった。
しゃんと坐り構えているのだが、いつになく娘じみて見えた。
最後に、今稽古中のをと言って、譜を見ながら新曲浦島を弾いてから、駒子は黙って撥を糸の下に挟むと、体を崩
した。
急に色気がこぼれて来た。
島村はなんとも言えなかったが、駒子も島村の批評を気にする風はさらになく、素直に楽しげだった。
「君はここの芸者の三味線を聞いただけで、誰だか皆分るかね。」
「そりゃ分りますわ、二十人足らずですもの。都々逸がよく分るわね、一番その人の癖が出るから。」
そしてまた三味線を拾い上げると、右足を折ったままずらせて、そのふくらはぎに三味線の胴を載せ、腰は左に崩
しながら、体は右に傾けて、
「小さい時こうして習ったわ。」と、棹を覗き込むと、
「く、ろ、かあ、みい、の……。」と、幼なげに歌って、ぽつんぽつん鳴らした。
「黒髪を最初に習ったの?」
「ううん。」と、駒子はその小さい時のように、かぶりを振った。
それからは泊まることがあっても、駒子はもう強いて夜明け前に帰ろうとはしなくなった。
「駒子ちゃん。」と、尻上りに廊下の遠くから呼ぶ、宿の女の子を火燵へ抱き入れて余念なく遊んでは、正午近くにそ
の三つの子と湯殿へ行ったりした。
湯上りの髪に櫛を入れてやりながら、
「この子は芸者さえ見れば、駒子ちゃんって、尻上りに呼ぶの。写真でも、絵でも、日本髪だと、駒子ちゃん、だって。
私子供好きだから、よく分るんだわ。きみちゃん、駒子ちゃんの家へ遊びに行こうね。」と、立ち上ったが、また廊下の
籐椅子へのどかに落ちついて、
「東京のあわて者だわ。もう辷ってるわ。」
山麓のスキイ場を真横から南に見晴せる高みに、この部屋はあった。
島村も火燵から振り向いてみると、スロオプは雪が斑らなので、五六人の黒いスキイ服がずっと裾の方の畑の中で
辷っていた。その段々の畑の畦は、まだ雪に隠れぬし、余り傾斜もないから一向たわいがなかった。
「学生らしいね。日曜かしら。あんなことで面白いかね。」
「でも、あれはいい姿勢で辷ってるんですわ。」と、駒子はひとりごとのように、
「スキイ場で芸者に挨拶されると、おや、君かいって、お客さんは驚くんですって。真黒に雪焼けしてるから分らない
の。夜はお化粧してるでしょう。」
「やっぱりスキイ服を着て。」
「山袴。ああ厭だ、厭だ、お座敷でね、では明日またスキイ場でってことに、もう直ぐなるのね。今年は辷るの止そうか
しら。さようなら。さあ、きみちゃん行こうよ。今夜は雪だわ。雪の降る前は冷えるんですよ。」
島村は駒子の立った後の籐椅子に坐っていると、スキイ場のはずれの坂道に、きみ子の手を引いて帰る駒子が見
えた。
雲が出て、陰になる山やまだ日光を受けている山が重なり合い、その陰日向がまた刻々に変って行くのは、薄寒い
眺めであったが、やがてスキイ場もふうっと陰って来た。窓の下に眼を落すと、枯れた菊の籬には寒天のような霜柱
が立っていた。しかし、屋根の雪の解ける樋の音は絶え間なかった。
その夜は雪でなく、霰の後は雨になった。
帰る前の月の冴えた夜、空気がきびしく冷えてから島村はもう一度駒子を呼ぶと、十一時近くだのに彼女は散歩を
しようと言ってきかなかった。なにか荒々しく彼を火燵から抱き上げて、無理に連れ出した。
道は凍っていた。村は寒気の底へ寝静まっていた。駒子は裾をからげて帯に挟んだ。月はまるで青い氷のなかの
刃のように澄み出ていた。
「駅まで行くのよ。」
「気ちがい。往復一里もある。」
「あんたもう東京へ帰るんでしょう。駅を見に行くの。」
島村は肩から腿まで寒さに痺れた。
部屋へ戻ると急に駒子はしょんぼりして、火燵に深く両腕を入れてうなだれながら、いつになく湯にも入らなかった。
火燵蒲団はそのままに、つまり掛蒲団がそれと重なり、敷蒲団の裾が掘火燵の縁へ届くように、寝床が一つ敷いて
あるのだが、駒子は横から火燵にあたって、じっとうなだれていた。
「どうしたんだ。」
「帰るの。」
「馬鹿言え。」
「いいから、あんたお休みなさい。私はこうしてたいから。」
「どうして帰るんだ。」
「帰らないわ。夜が明けるまでここにいるわ。」
「つまらん、意地悪するなよ。」
「意地悪なんかしないわ。意地悪なんかしやしないわ。」
「じゃあ。」
「ううん、難儀なの。」
「なあんだ、そんなこと。ちっともかまやしない。」と、島村は笑い出して、
「どうもしやしないよ。」
「いや。」
「それに馬鹿だね、あんな乱暴に歩いて。」
「帰るの。」
「帰らなくてもいいよ。」
「つらいわ。ねえ、あんたもう東京へ帰んなさい。つらいわ。」と、駒子は火燵の上にそっと顔を伏せた。
つらいとは、旅の人に深填りしてゆきそうな心細さであろうか。またはこういう時に、じっとこらえるやるせなさであろ
うか。女の心はそんなにまで来ているのかと、島村はしばらく黙り込んだ。
「もう帰んなさい。」
「実は明日帰ろうかと思っている。」
「あら、どうして帰るの?」と、駒子は目が覚めたように顔を起した。
「いつまでいたって、君をどうしてあげることも、僕には出来ないんじゃないか。」
ぼうっと島村を見つめていたかと思うと、突然激しい口調で、
「それがいけないのよ。あんた、それがいけないのよ。」と、じれったそうに立ち上って来て、いきなり島村の首に縋り
ついて取り乱しながら、
「あんた、そんなこと言うのがいけないのよ。起きなさい。起きなさいってば。」と、口走りつつ自分が倒れて、物狂わし
さに体のことも忘れてしまった。
それから温かく潤んだ目を開くと、
「ほんとうに明日帰りなさいね。」と、静かに言って、髪の毛を拾った。
島村は次の日の午後三時で立つことにして、服に着替えている時に、宿の番頭が駒子をそっと廊下へ呼び出した。
そうね、十一時間くらいにしておいて頂戴と駒子の返事が聞えた。十六七時間は余り長過ぎると、番頭が思ってのこ
とかも知れない。
勘定書を見ると、朝の五時に帰ったのは五時まで、翌日の十二時に帰ったのは十二時まで、すべて時間勘定に
なっていた。
駒子はコオトに白い襟巻をして、駅まで見送って来た。
またたびの実の漬物やなめこの缶詰など、時間つぶしに土産物を買っても、まだ二十分も余っているので、駅前の
小高い広場を歩きながら、四方雪の山の狭い土地だなあと眺めていると、駒子の髪の黒過ぎるのが、日陰の山峡の
侘しさのために反ってみじめに見えた。
遠く川下の山腹に、どうしたのか一箇処、薄日の射したところがあった。
「僕が来てから、雪が大分消えたじゃないか。」
「でも二日降れば、直ぐ六尺は積るわ。それが続くと、あの電信柱の電燈が雪のなかになってしまうわ。あんたのこと
なんか考えて歩いてたら、電線に首をひっかけて怪我するわ。」
「そんなに積るの。」
「この先きの町の中学ではね、大雪の朝は、寄宿舎の二階の窓から、裸で雪へ飛びこむんですって。体が雪のなか
へすぽっと沈んでしまって見えなくなるの。そうして水泳みたいに、雪の底を泳ぎ歩くんですって。ね、あすこにもラッ
セルがいるわ。」
「雪見に来たいが正月は宿がこむだろうね。汽車は雪崩に埋れやしないか。」
「あんた贅沢な人ねえ。そういう暮しばかりしてるの?」と、駒子は島村の顔を見ていたが、
「どうして髭をお伸しにならないの。」
「うん。伸そうと思ってる。」と、青々と濃い剃刀のあとをなでながら、自分の口の端には一筋みごとな皺が通っていて、
柔かい頬をきりっと見せる、駒子もそのために買いかぶっているかもしれないと思ったが、
「君はなんだね、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だね。」
「気持の悪い烏が鳴いてる。どこで鳴いてる。寒いわ。」と、駒子は空を見上げて、両肘で胸脇を抑えた。
「待合室のストオヴにあたろうか。」
その時、街道から停車場へ折れる広い道を、あわただしく駈けて来るのは葉子の山袴だった。
「ああっ、駒ちゃん、行男さんが、駒ちゃん。」と、葉子は息切れしながら、ちょうど恐ろしいものを逃れた子供が母親
に縋りつくみたいに、駒子の肩を掴んで、
「早く帰って、様子が変よ、早く。」
駒子は肩の痛さをこらえるかのように目をつぶると、さっと顔色がなくなったが、思いがけなくはっきりかぶりを振っ
た。
「お客さまを送ってるんだから、私帰れないわ。」
島村は驚いて、
「見送りなんて、そんなものいいから。」
「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない。」
「来るよ、来るよ。」
葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、
「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる。」と、駒子を引っぱるのに、駒子
はじっとこらえていたが、急に振り払って、
「いやよ。」
その途端、二三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の
縁が湿って、頬が鳥肌立った。
葉子は呆然としゃっちょこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきは余りに真剣なので、怒っているのか、驚い
ているのか、悲しんでいるのか、それが現われず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。
その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を掴んで、
「ねえ、すみません。この人を帰して下さい。帰して下さい。」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。
「ええ、帰します。」と、島村は大きな声を出した。
「早く帰れよ、馬鹿。」
「あんた、なにを言うことあって。」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。
島村は駅前の自動車を指そうとすると、葉子に力いっぱい掴まれていた手先が痺れたけれども、
「あの車で、今直ぐ帰しますから、とにかくあんたは先きに行ってたらいいでしょう。ここでそんな、人が見ますよ。」
葉子はこくりとうなずくと、
「早くね、早くね。」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っている
と、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。
葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。
「どこへ行く。」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つけに行こうとするのを引き戻して、
「いや。私帰らないわよ。」
ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。
「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼
びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張ら
ないでさらりと水に流せ。」
「ちがう。あんた誤解しているわ。」
「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、そ
の人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りの頁に、君を書きに行くんだ。」
「いや、人の死ぬの見るなんか。」
それは冷たい薄情とも、余りに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、
「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう。」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、
「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あ
んた素直な人だと思うけれど。」
島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強
いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。
宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。
陰気な冬支度の土地の人が四五人、黙って乗り降りしただけであった。
「フォウムへは入らないわ。さよなら。」と、駒子は待合室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。そ
れは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れら
れたようであった。
汽車が動くと直ぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまっ
たが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際
の色であった。
国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてし
まったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間
から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。
流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで
伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである、その山の全き姿を淡い夕映の空がくっきりと濃
深縹色に描き出した。月は、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮
るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬
枯の車窓に暮れ残るものであった。
窓はスチイムの温気に曇りはじめ、外を流れる野のほの暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に
写るのだった。あの夕景色の鏡の戯れであった。東海道線などとは別の国の汽車のように使い古して色褪せた旧式
の客車が三四輛しか繋がっていないのだろう。電燈も暗い。
島村はなにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれて行くような放心状態に落ち
ると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。
それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだか
ら忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかって行く今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声で
あった。
ちょうど今頃は、行男が息を引き取ってしまっただろうか。なぜか頑固に帰らなかったが、そのために駒子は行男の
死目にもあえなかっただろうか。
乗客は不気味なほど少なかった。
五十過ぎの男と顔の赤い娘とが向い合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上った肩に黒い
襟巻を巻いて、娘は全く燃えるようにみごとな血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。
長い旅を行く二人のように見えた。
ところが、製糸工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李をおろして、それを窓からプ
ラット・フォウムへ落しながら、
「まあじゃあ、御縁でもってまたいっしょになろう。」と、娘に言い残して降りて行った。
島村はふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それで一入、女に別れての帰りだと思った。
偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。
蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけ
に細君が言った。来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六七匹も吸
いついていた。次の間の三畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。
窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まってい
た。檜皮色の小さい羽毛のような触角を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほど
ある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑は反って死
のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひ
らひらと揺れた。
生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木
の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上った。
よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。
山裾の川は杉の梢から流れ出るように見えた。
白萩らしい花が小高い山腹に咲き乱れて銀色に光っているのを、島村はまた飽きずに眺めた。
内湯から出て来ると、ロシア女の物売りが玄関に腰かけていた。こんな田舎まで来るのだろうかと、島村は見に
行った。ありふれた日本の化粧品や髪飾などだった。
もう四十を出ているらしく顔は小皺で垢じみていたが、太い首から覗けるあたりが真白に脂ぎっている。
「あんたどこから来ました。」と、島村が問うと、
「どこから来ました? 私、どこからですか。」と、ロシア女は答えに迷って、店をかたづけながら考える風だった。
不潔な布を巻いたようなスカアトは、最早洋装という感じも失せ、日本慣れたもので、大きい風呂敷包を背負って
帰って行った。それでも靴は履いていた。
いっしょに見送っていたおかみさんに誘われて、島村も帳場へ行くと、炉端に大柄の女が後向きに坐っていた。女
は裾を取って立ち上った。黒紋附を着ていた。
スキイ場の宣伝写真に、座敷着のまま木綿の山袴を穿きスキイに乗って、駒子と並んでいたので、島村も見覚え
のある芸者だった。ふっくりと押出しの大様な年増だった。
宿の主人は炉に金火箸を渡して、大きい小判型の饅頭を焼いていた。
「こんなもの、お一ついかがです。祝いものでございますから、お慰みに一口召上ってみたら。」
「今の人が引いたんですか。」
「はい。」
「いい芸者ですね。」
「年期があけて、挨拶廻りに来ましてな。よく売れた子でしたけれども。」
熱い饅頭を吹きなが島村が囓んでみると、固い皮は古びた匂いで少し酸っぱかった。
窓の外には、真赤に熟した柿の実に夕日があたって、その光は自在鍵の竹筒にまで射しこんで来るかと思われた。
「あんな長い、薄ですね。」と、島村は驚いて坂路を見た。背負って行く婆さんの身の丈の二倍もある。そして長い穂
だ。
「はい。あれは萱でございますよ。」
「萱ですか。萱ですか。」
「鉄道省の温泉展覧会の時に、休憩所ですか、茶室を造りまして、その屋根はここの萱で葺きましてな。なんでも東
京の方がその茶室をそっくりそのままお買いになったそうでございますよ。」
「萱ですか。」と、島村はもう一度ひとりごとのように呟いて、
「山に咲いているのは萱なんですね。萩の花かと思った。」
島村が汽車から降りて真先に目についたのは、この山の白い花だった。急斜面の山腹の頂上近く、一面に咲き乱
れて銀色に光っている。それは山に降りそそぐ秋の日光そのもののようで、ああと彼は感情を染められたのだった。
それを白萩と思ったのだった。
しかし近くに見る萱の猛々しさは、遠い山に仰ぐ感傷の花とはまるでちがっていた。大きい束はそれを背負う女達
の姿をすっかり隠して、坂路の両側の石崖にがさがさ鳴って行った。逞しい穂であった。
部屋へ戻ってみると、十燭燈のほの暗い次の間では、あの胴の太い蛾が黒塗りの衣桁に卵を産んで歩いていた。
軒端の蛾も装飾燈にばたばたぶっつかった。
虫は昼間から鳴きしきっていた。
駒子は少し後れて来た。
廊下に立ったまま、真向きに島村を見つめて、
「あんた、なにしに来た。こんなところへなんしに来た。」
「君に会いに来た。」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い。」
そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
「もう送って行くのはいやよ。なんともいえない気持だわ。」
「ああ、今度は黙って帰るよ。」
「いやよ。停車場へは行かないっていうことだわ。」
「あの人はどうなった。」
「無論死にました。」
「君が送りに来てくれた間にか。」
「でも、それとは別よ。送るって、あんなにいやなものとは思わなかったわ。」
「うん。」
「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないからい
い。」
二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓で雪を
踏み固め、その雪の板を二尺平方ぐらいに切り起し、それを積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方に高さ一
丈に余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄を貰い集めて来て、堂の前であかあかと焚火をする。この村の
正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供等は雪の堂の屋根に上って、押し合い揉み合い鳥追い
の歌を歌う。それから子供等は雪の堂に入って燈明をともし、そこで夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に
雪の堂の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。
ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村は鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。
「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日に帰って来たんだわ。もっと
ゆっくり看病して来ればよかった。」
「誰か病気。」
「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんです
わ。」
「よくなったの?」
「いいえ。」
「それは悪かったね。」と、島村は約束を守らなかったのを詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、
「ううん。」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、ハンカチで机を払いながら、
「ひどい虫。」
ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。
網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまって、澄み渡った月明りに浮んでいた。
「胃が痛い、胃が痛い。」と、駒子は両手を帯の間へぐっと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。
襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫がたちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなくな
るのもあった。
首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。二十一になったのだと、島村は思った。
彼の膝に生温い湿りけが通って来た。
「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、
帰って楽々寝ようと思ってると、ここからかかって来てるって言うんでしょう。大儀だからよっぽど止そうと思ったわ。昨
夜飲み過ぎた。ねえさんの送別会だったの。お帳場で笑ってばかりいて、あんただった。一年振りねえ。一年に一度
来る人なの?」
「あの饅頭を僕も食ったよ。」
「そう?」と、駒子は胸を起した。島村の膝に押しつけていたところだけが赤らんで、急に幼なじみた顔に見えた。
次の次の停車場の町まで、あの年増芸者を見送って来たのだと言った。
「つまらないわ。前はなんでも直ぐ纏まったけれど、だんだん個人主義になって銘々がばらばらなの。ここもずいぶん
変ったわ。気性の合わない人が殖えるばかりなの。菊勇ねえさんがいなくなると、私は寂しいんです。なんでもあの
人が中心だったから。売れることも一番で六百本を欠かすことはないから、うちでも大事にされてたんだけれど。」
その菊勇は年期があけて生れた町へ帰るというが、結婚するのか、なにか水商売を続けるのかと島村が問うと、
「ねえさんも可哀想な人なの。お嫁入りは前に一度失敗して、ここへ来たのよ。」と、駒子はその後を口籠って、とかく
ためらってから、月明りの段々畑の下を眺めて、
「あすこの坂の途中に、建ったばかりの家があるでしょう。」
「菊村って小料理屋?」
「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分の
ために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と
結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、
今更元の鞘におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよ
そで稼ぎ直すんですわ。考えると可哀想なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね。」
「男がね。五人もあったのかい。」
「そうね。」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。
「ねえさんも弱い人だったんだわ。弱虫だ。」
「しかたがないさ。」
「だってそうじゃないの。好かれたって、なんですか。」
うつ向いたまま簪で頭を掻いた。
「今日送って行って、せつなかったわ。」
「それでせっかくの店はどうしたの。」
「本妻が来てやってるわ。」
「本妻が来てやってるとは面白い。」
「だって、開業の支度もすっかり出来てたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供もみんなつれて、
本妻が移って来たわ。」
「うちはどうしたんだね。」
「お婆さんを一人残してあるんですって。百姓なんですけれど、主人がこんなこと好きなのね。それは面白い人。」
「道楽者だね。もういい年なんだろう。」
「若いのよ。三十二三かしら。」
「へええ。それじゃ本妻よりお妾さんの方が年上になるところだったね。」
「おない年の二十七ね。」
「菊村というのは、菊勇の菊だろう。それを本妻がやってるのかね。」
「一度出した看板を変えるわけにもいかないからでしょう。」
島村が襟を掻き合わせると、駒子は立って行って窓をしめながら、
「ねえさんはあんたのこともよく知ってた。いらしたわねって、今日も言ってくれた。」
「挨拶に来てたのを帳場で見かけたよ。」
「なんか言った。」
「言やしないよ。」
「あんた私の気持分る?」と、駒子は今しめたばかりの障子をさっとあけて、窓に体を投げつけるように腰かけた。島
村はしばらくしてから、
「星の光が東京とまるでちがうね。いかにも宙に浮いてるね。」
「月夜だからそうでもないわ。今年の雪はひどかったわ。」
「汽車が度々不通だったらしいね。」
「ええ、こわいくらい。自動車の通うのが、例年より一月も後れて、五月だったわ。スキイ場に売店があるでしょう、あ
の二階を雪崩が突き抜けて、下にいた人はそんなことを知らなくて、変な音がするから、台所で鼠が騒いだんだろう
と行ってみてなんともないから、二階へあがると雪だらけじゃないの。雨戸もなにも雪に持って行かれちゃってるのよ。
表層雪崩なんだけれど、それをラジオで大きく放送したものよ。恐ろしがってスキイ客が来やしないの。今年はもう乗
らないつもりで、去年の暮にスキイも人にくれちゃったのよ。それでも二三度辷ったかしら。私変ってない?」
「お師匠さんが死んで、どうしてたんだ。」
「ひとのことなんか、ほっときなさい。二月にはちゃんとここへ来て待ってたわ。」
「港へ帰ったんなら、そうと手紙をよこせばいいじゃないか。」
「いやよ。そんなみじめな、いやよ。奥さんに見られてもいいような手紙なんか書かないわ。みじめだわ。気兼ねして
嘘つくことないわ。」
駒子は早口に叩きつけるような激しさだった。島村はうなずいた。
「あんたそんな虫のなかに坐ってないで、電燈を消すといいわ。」
女の耳の凹凸もはっきり形をつくるほど月は明るかった。深く射しこんで畳が冷たく青むようであった。
駒子の脣は美しい蛭の輪のように滑らかであった。
「いや、帰して。」
「相変らずだね。」と、島村は首を反って、どこかおかしいようで少し中高な円顔を、真近に眺めた。
「十七でここへ来た時とちっとも変らないって、みんなそう言うわ。生活だって、それはおんなじなんですもの。」
北国の少女の頬の赤みがまだ濃く残っている。芸者風な肌理に月光が貝殻じみたつやを出した。
「でも、うちは変ったの御存じ?」
「お師匠さんが死んでね? もうあのお蚕さんの部屋にはいないんだね。今度のうちほんとうの置屋かい?」
「ほんとうの置屋って? そうね、店で駄菓子や煙草を売ってますわ。やっぱり私一人しかいないの。今度はほんとう
の奉公だから、夜晩くなると、蝋燭をともして本を読むわ。」
島村が肩を抱いて笑うと、
「メエトルだから、電気を無駄づかいしちゃ悪いわ。」
「そうかね。」
「でも、これが奉公かしらと思うことがあるくらい、うちの人はずいぶん大事にしてくれるのよ。子供が泣いたりすると、
おかみさんが遠慮して表へ負ぶって出て行くわ。なんの不足もないけれど、寝床の曲ってるのだけはいやね。帰りが
おそいと敷いといてくれるのよ。敷蒲団がきちんと重なってなかったり、敷布がゆがんでたりでしょう。そんなのを見る
と、情なくなって来るのよ。そうかって、自分で敷き直すのは悪いわ。親切がありがたいから。」
「君が家を持ったら苦労だね。」
「皆そう言うわ。性分ね。うちに小さい子供が四人あるから散らかって大変なのよ。私はそれを一日かたづけて歩い
てるわ。かたづける後から、どうせ散らかすのは分ってるんだけれど、気になってほっとけないんです。境遇の許す
範囲で、これでも私、きれいに暮したいとは思ってるんですよ。」
「そうだね。」
「あんた私の気持分る?」
「分るよ。」
「分るなら言ってごらんなさい。さあ、言ってごらんなさい。」と、駒子は突然思い迫った声で突っかかって来た。
「それごらんなさい。言えやしないじゃないの。嘘ばっかり。あんたは贅沢に暮して、いい加減な人だわ。分りゃしな
い。」
そうして声を沈ますと、
「悲しいわ。私が馬鹿。あんたもう明日帰んなさい。」
「そう君のように問いつめたって、はっきり言えるもんじゃない。」
「なにが言えないの。あんたそれがいけないのよ。」と、駒子はまだ術なげに声をつまらせたが、じっと目をつぶると
自分というものを島村がなんとなく感じていてくれるのだろうかと、それは分ったらしい素振りを見せて、
「一年に一度でいいからいらっしゃいね。私のここにいる間は、一年に一度、きっといらっしゃいね。」
年期は四年だと言った。
「実家へ行く時は、また商売に出るなんて夢にも思わなくて、スキイも人にくれて行っちゃったのに、出来たことと言え
ば、煙草を止めただけだわ。」
「そうそう、前にはずいぶん吹かしてたね。」
「ええ。お座敷でお客さんのくれるのを、そっと袂へ入れるから、帰ると何本も出て来ることがあるわ。」
「四年はしかし長いね。」
「直ぐ経ってしまいますわ。」
「温い。」と、島村は駒子が近づいて来るままに抱き上げた。
「温いのは生れつきよ。」
「もう朝晩は寒くなっているんだね。」
「私がここへ来てから五年だもの。初めは心細くて、こんなところに住むのかと思ったわ。汽車の開通前は寂しかった
なあ。あんたが来はじめてからだって、もう三年だわ。」
その三年足らずの間に三度来たが、その度毎に駒子の境遇の変っていることを、島村は思っていた。
轡虫が急に幾匹も鳴き出した。
「いやねえ。」と、駒子は彼の膝から立ち上った。
北風が来て網戸の蛾が一斉に飛んだ。
黒い眼を薄く開いていると見えるのは濃い睫毛を閉じ合わせたのだと、島村はもう知っていながら、やはり近々との
ぞきこんでみた。
「煙草を止めて、太ったわ。」
腹の脂肪が厚くなっていた。
離れていてはとらえ難いものも、こうしてみると忽ちその親しみが還って来る。
駒子はそっと掌を胸へやって、
「片方が大きくなったの。」
「馬鹿。その人の癖だね、一方ばかり。」
「あら。いやだわ。嘘、いやな人。」と、駒子は急に変った。これであったと島村は思い出した。
「両方平均にって、今度からそう言え。」
「平均に? 平均にって言うの?」と、駒子は柔かに顔を寄せた。
この部屋は二階であるが、家のぐるりを蟇が鳴いて廻った。一匹ではなく、二匹も三匹も歩いているらしい。長いこ
と鳴いていた。
内湯から上って来ると、駒子は安心しきった静かな声でまた身上話をはじめた。
ここで初めての検査の時に、半玉の頃と同じだと思って、胸だけ脱ぐと笑われたこと、それから泣き出してしまった
こと、そんなことまで言った。島村に問われるままに、
「私は実に正確なの、二日ずつきちんと早くなって行くの。」
「だけどさ、お座敷へ出るのに困るというようなことはないだろう。」
「ええ、そんなこと分るの?」
温まるので名高い温泉に毎日入っているし、旧温泉と新温泉との間をお座敷通いすれば一里も歩くわけになるし、
夜更しも少ない山暮しだから、健康な固太りだけれども、芸者などにありがちの少うし腰窄まりだった。横に狭くて縦
に厚い。そのくせ島村が遠く惹かれて来るような女であることなのは、哀れ深いものがあった。
「私のようなのは子供が出来ないのかしらね」と、駒子は生真面目にたずねた。一人の人とつきあってれば、夫婦と
おなじではないかと言うのだった。
駒子にそういう人のあるのを島村は初めて知った。十七の年から五年続いていると言う。島村が前から訝しく思っ
ていた、駒子の無知で無警戒なのはそれで分った。
半玉で受け出してくれた人に死に別れて、港へ帰ると直ぐにその話があったためか、駒子は初めから今日までその
人が厭で、いつまでも打ちとけられないと言う。
「五年も続けば、上等の方じゃないか。」
「別れる機会は二度もあったのよ。ここで芸者に出る時と、お師匠さんのうちから今のうちへ変る時と。でも、意志が
弱いんだわ。ほんとうに意志が弱いんだわ。」
その人は港にいると言う。その町に置くのは都合が悪いので、師匠がこの村へ来るついでに預けてよこしたのだと
言う。親切な人だのに、一度も生き身をゆるす気になれないのは、悲しいと言う。年がちがうので、たまにしか来ない
と言う。
「どうしたら切れるか、よっぽど不行跡を働こうと時々思うのよ。ほんとうに思うんですよ。」
「不行跡はよくない。」
「不行跡は出来ない。やっぱり性分でだめだわ。私は自分の生きてる体が可愛いわ。しようとおもえば、四年の年期
が二年になるんだけれど、無理をしないの。体が大事だから。無理すれば、ずいぶん線香が出るだろうな。年期だか
ら、主人に損をかけなければいいのよ。元金が月に割って幾ら、利子が幾ら、税金が幾ら、それに自分の食い扶持
を勘定に入れて、分ってるでしょう。それ以上あまり無理して働くこともないわ。面倒臭い座敷でいやなら、さっさと
帰っちまうし、おなじみの名指しでなければ、宿でも夜おそくかけてよこさないわ。自分で贅沢する分にはきりがない
けれども、気随に稼いでいて、それですむんですもの。もう元金を半分以上返したわ。まだ一年にならないわ。それで
もお小遣がなにやかやと月三十円はかかるわね。」
月に百円稼げばいいのだと言った。先月一番少い人で三百本の六十円だと言った。駒子は座敷数が九十幾つで
一番多く、一座敷で一本が自分の貰いになるので、主人には損だが、どんどん廻るのだと言った。借金を殖やして年
期の延びた人は、この温泉場には一人もないと言った。
翌る朝、駒子はやはり早くて、
「お花のお師匠さんとこのお部屋を掃除している夢を見て、目が覚めちゃったの。」
窓際へ持ち出した鏡台には紅葉の山が写っていた。鏡のなかにも秋の日ざしが明るかった。
駄菓子屋の女の子が駒子の着替えを持って来た。
「駒ちゃん。」と、悲しいほど澄み通る声で襖の陰から呼ぶ、あの葉子ではなかった。
「あの娘さんはどうした。」
駒子はちらっと島村を見て、
「お墓参りばかりしてるわ。スキイ場の裾にほら、蕎麦の畑があるでしょう、白い花の咲いてる。その左に墓が見える
じゃないの?」
駒子が帰ってから島村も村へ散歩に行ってみた。
白壁の軒下で真新しい朱色のネルの山袴を履いて、女の子がゴム鞠を突いているのは、実に秋であった。
大名が通った頃からであろうと思われる、古風な作りの家が多い。廂が深い。二階の窓障子は高さ一尺ぐらいしか
なくて長細い。軒端に萱の簾を垂れている。
土坡の上に糸薄を植えた垣があった。糸薄は桑染色の花盛りであった。その細い葉が一株ずつ美しく噴水のよう
な形に拡がっていた。
そうして道端の日向に藁莚を敷いて小豆を打っているのは葉子だった。
乾いた豆幹から小豆が小粒の光のように躍り出る。
手拭をかぶっているので島村が見えないのか、葉子は山袴の膝頭を開いて小豆を叩きながら、あの悲しいほど澄
み通って木魂しそうな声で歌っていた。
蝶々とんぼやきりぎりす
お山でさえずる
松虫鈴虫くつわ虫
杉の樹をつと離れた、夕風のなかの烏が大きい、という歌があるが、この窓から見下す杉林の前には、今日も蜻蛉
の群が流れている。夕が近づくにつれ、彼等の遊泳はあわただしく速力を早めて来るようだった。
島村は出発の前に駅の売店でここらあたりの山案内書の新刊を見つけて買って来た。それをとりとめなく読んでい
ると、この部屋から見晴らす国境の山々、その一つの頂近くは、美しい池沼を縫う小路で、一帯の湿地にいろんな高
山植物が花咲き乱れ、夏ならば無心に赤蜻蛉が飛び、帽子や人の手や、また時には眼鏡の縁にさえとまるのどかさ、
都会の蜻蛉とは雲泥の差であると書いてあった。
しかし目の前の蜻蛉の群は、なにか追いつめられたもののように見える。暮れるに先立って黒ずむ杉林の色にそ
の姿を消されまいとあせっているもののように見える。
遠い山は西日を受けると、峰から紅葉して来ているのがはっきり分った。
「人間なんて脆いもんね。頭から骨まで、すっかりぐしゃぐしゃにつぶれてたんですって。熊なんか、もっと高い岩棚か
ら落ちたって、体はちっとも傷がつかないそうよ。」と、今朝駒子が言ったのを島村は思い出した。岩場でまた遭難が
あったという、その山を指ざしながらであった。
熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮
膚を愛し合っているのだ。そんなことを思って夕日の山を眺めていると島村は感傷的に人肌がなつかしくなって来た。
「蝶々とんぼやきりぎりす……。」というあの歌を、早い夕飯時に下手な三味線で歌っている芸者があった。
山の案内書には、登路、日程、宿泊所、費用などが、簡単に書いてあるだけで、反って空想を自由にしたし、島村
が初めて駒子を知ったのも、残雪の肌に新緑の萌える山を歩いて、この温泉村へ下りて来た時のことだったし、自分
の足跡も残っている山を、こうして眺めていると、今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘われて行くのだった。
無為徒食の彼には、用もないのに難儀して山を歩くなど徒労の見本のように思われるのだったが、それゆえにまた
非現実的な魅力もあった。
遠く離れていると、駒子のことがしきりに思われるにかかわらず、さて近くに来てみると、なにか安心してしまうのか、
今はもう彼女の肉体も親し過ぎるのか、人肌がなつかしい思いと、山に誘われる思いとは、同じ夢のように感じられ
るのだった。昨夜駒子が泊って行ったばかりだからでもあろう。しかし静かななかに一人坐っていては、呼ばなくても
駒子も来そうなものだと、心待ちするよりしかたがなかったが、ハイキングの女学生達の若々しく騒ぐ声が聞えている
うちに眠ろうと思って、島村は早くから寝た。
やがて時雨が通るらしかった。
翌る朝目をあくと、駒子が机の前にきちんと坐って本を読んでいた。羽織も銘仙の不断着だった。
「目が覚めた?」と、彼女は静かに言って、こちらを見た。
「どうしたんだい。」
「目が覚めた?」
知らぬ間に来て泊っていたのかと疑って、島村が自分の寝床を見廻しながら、枕もとの時計を拾うと、まだ六時半
だった。
「早いんだね。」
「だって、女中さんがもう火を入れに来たわよ。」
鉄瓶は朝らしい湯気を立てていた。
「起きなさいよ。」と、駒子は立って来て、彼の枕もとに坐った。ひどく家庭の女めいた素振りであった。島村は伸びを
したついでに、女の膝の上の手をつかんで小さい指の撥胼胝を弄びながら、
「眠いよ。夜があけたばかりじゃないか。」
「一人でよく眠れた?」
「ああ。」
「あんた、やっぱり髭をお伸しにならなかったのね。」
「そうそう、この前別れる時、そんなこと言ってたね、髭を生やせって。」
「どうせ忘れてたって、いいわよ。いつも青々ときれいに剃ってらっしゃるのね。」
「君だって、いつでも白粉を落すと、今剃刀をあてたばかりという顔だよ。」
「頬っぺたが、またお太りになったんじゃないかしら。色が白くて、眠ってらっしゃるところは髭がないと変だわ。円い
わ。」
「柔和でいいだろう。」
「頼りないわ。」
「いやだね。じろじろ見てたんだね。」
「そう。」と、駒子はにっこりうなずいてその微笑から急に火がついたように笑い出すと、知らず識らず彼の指を握る手
にまで力が入って、
「押入に、隠れたのよ。女中さんちっとも気がつかないで。」
「いつさ。いつから隠れてたんだ。」
「今じゃないの? 女中さんが火を持って来た時よ。」
そして思い出し笑いが止まらぬ風だったが、ふと耳の根まで赤らめると、それを紛らわすように掛蒲団の端を持って
煽ぎながら、
「起きなさい。起きて頂戴。」
「寒いよ。」と、島村は蒲団を抱えこんで、
「宿じゃもう起きてるのかい。」
「知らないわ。裏から上って来たのよ。」
「裏から?」
「杉林のところから掻き登って来たのよ。」
「そんな路があるの?」
「路はないけれど、近いわ。」
島村は驚いて駒子を見た。
「私が来たのを誰も知らないわ。お勝手に音がしてたけれど、玄関はまだしまってるんでしょう。」
「君はまた早起きなんだね。」
「昨夜眠れなかったのよ。」
「時雨があったの知ってる?」
「そう? あすこの熊笹が濡れてたの、それでなのね。帰るわね。もう一寝入り、お休みなさいね。」
「起きるよ。」と、島村は女の手を握ったまま、勢いよく寝床を出た。そのまま窓へ行って、女が掻き登って来たという
あたりを見下すと、潅木類の茂りの裾に熊笹が猛々しく拡がっていた。それは杉林に続く丘の中腹で、窓の直ぐ下の
畑には、大根、薩摩芋、葱、里芋など、平凡な野菜ながら朝の日を受けて、それぞれの葉の色のちがいが初めて見
るような気持であった。
湯殿へ行く廊下から、番頭が泉水の緋鯉に餌を投げていた。
「寒くなったとみえて、食いが悪くなりました。」と、番頭は島村に言って、蚕の蛹を干し砕いた餌が水に浮んでいるの
を、しばらく眺めていた。
駒子は清潔に坐っていて、湯から上って来た島村に、
「こんな静かなところで、裁縫してたら。」
部屋は掃除したばかりで、少し古びた畳に秋の朝日が深く差しこんでいた。
「裁縫が出来るのか。」
「失礼ね。きょうだいじゅうで、一番苦労したわ。考えてみると、私の大きくなる頃が、ちょうどうちの苦しい時だったらし
いわ。」と、ひとりごとのようだったが、急に声をはずませて、
「駒ちゃんいつ来たって、女中さんが変な顔してたわ。二度も三度も押入に隠れることは出来ないし、困っちゃった。
帰るわね。いそがしいのよ。眠れなかったから、髪を洗おうと思ったの。朝早く洗っとかないと、乾くのを待って、髪結
いさんへ行って、昼の宴会の間に合わないのよ。ここにも宴会があるけれど、昨夜になってしらせてよこすんだもの。
よそを受けちゃった後で、来られやしない。土曜日だから、とてもいそがしいのよ。遊びに来られないわ。」
そんなことを言いながら、しかし駒子は立ち上りそうもなかった。
髪を洗うのは止めにして、島村を裏庭へ誘い出した。さっきそこから忍んで来たのか、渡廊下の下に駒子の濡れた
下駄と足袋があった。
彼女が掻き登ったという熊笹は通れそうもないので、畑沿いに水音の方へ下りて行くと、川岸は深い崖になってい
て、栗の木の上から子供の声が聞えた。足もとの草のなかにも毬が幾つも落ちていた。駒子は下駄で踏みにじって、
実を剥き出した。みんな小粒の栗だった。
向岸の急傾斜の山腹には萱の穂が一面に咲き揃って、眩しい銀色に揺れていた。眩しい色と言っても、それは秋
空を飛んでいる透明な儚さのようであった。
「あすこへ行ってみようか、君のいいなずけの墓が見える。」
駒子はすっと伸び上って島村をまともに見ると、一握りの栗をいきなり彼の顔に投げつけて、
「あんた私を馬鹿にしてんのね。」
島村は避ける間もなかった。額に音がして、痛かった。
「なんの因縁があって、あんた墓を見物するのよ。」
「なにをそう向きになるんだ。」
「あれだって、私には真面目なことだったんだわ。あんたみたいに贅沢な気持で生きてる人とちがうわ。」
「誰が贅沢な気持で生きてるもんか。」と、彼は力なく呟いた。
「じゃあ、なぜいいなずけなんて言うの? いいなずけでないってことは、この前よく話したじゃないの? 忘れてんの
ね。」
島村は忘れていたわけではない。
「お師匠さんがね、息子さんと私といっしょになればいいと、思った時があったかもしれないの。心のなかだけのこと
で、口には一度も出しゃしませんけれどね。そういうお師匠さんの心のうちは、息子さんも私も薄々知ってたの。だけ
ど、二人は別になんでもなかった。別れ別れに暮して来たのよ。東京へ売られて行く時、あの人がたった一人見送っ
てくれた。」
駒子がそう言ったのを覚えている。
その男が危篤だというのに、彼女は島村のところへ泊って、
「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」と、身を投げ出すように言ったこともあった。
まして、駒子がちょうど島村を駅へ見送っていた時に、病人の様子が変ったと、葉子が迎えに来たにかかわらず、
駒子は断じて帰らなかったために、死目にも会えなかったらしいということもあったので、尚更島村はその行男という
男が心に残っていた。
駒子はいつも行男の話を避けたがる。いいなずけではなかったにしても、彼の療養費を稼ぐために、ここで芸者に
出たというのだから、「真面目なこと」だったにちがいない。
栗をぶっつけられても、腹を立てる風がないので、駒子は束の間訝しそうであったが、ふいと折れ崩れるように縋っ
て来て、
「ねえ、あんた素直な人ね。なにか悲しいんでしょう。」
「木の上で子供が見てるよ。」
「分らないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」
「なにもかも散っちゃってるよ。」
「今に命まで散らすわよ。墓を見に行きましょうか。」
「そうだね。」
「それごらんなさい。墓なんかちっとも見たくないんじゃないの?」
「君の方でこだわってるだけだよ。」
「私は一度も参ったことがないから、こだわるのよ、ほんとうよ、一度も。今はお師匠さんもいっしょに埋まってるんで
すから、お師匠さんにはすまないと思うけれど、今更参れやしない。そんなことしらじらしいわ。」
「君の方がよっぱど複雑だね。」
「どうして? 生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ。」
静けさが冷たい滴となって落ちそうな杉林を抜けて、スキイ場の裾を線路伝いに行くと、直ぐに墓場だった。田の畦
の小高い一角に、古びた石碑が十ばかりと地蔵が立っているだけだった。貧しげな裸だった。花はなかった。
しかし、地蔵の裏の低い木蔭から、不意に葉子の胸が浮び上った。彼女もとっさに仮面じみた例の真剣な顔をして、
刺すように燃える目でこちらを見た。島村はこくんとおじぎをするとそのまま立ち止まった。
「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……。」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされた
ように、彼女も島村も身を竦めた。
貨物列車が真近を通ったのだ。
「姉さあん。」と呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨車の扉から、少年が帽子を振っていた。
「佐一郎う、佐一郎う。」と、葉子が呼んだ。
雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞えもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。
貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮かに見えた。赤い茎の上に咲き揃っ
て実に静かであった。
思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨
物列車が吹き払って行ってしまった。
そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。
葉子は汽車を見送って、
「弟が乗っていたから、駅へ行ってみようかしら。」
「だって、汽車は駅に待ってやしないわ。」と、駒子が笑った。
「そうね。」
「私ね、行男さんのお墓参りはしないことよ。」
葉子はうなずいて、ちょっとためらっていたが、墓の前にしゃがんで手を合わせた。
駒子は突っ立ったままであった。
島村は目をそらして地蔵を見た。長い顔の三面で、胸で合掌した一組の腕のほかに、右と左に二本ずつの手が
あった。
「髪を結うのよ。」と、駒子は葉子に言って、畦路を村の方へ行った。
土地の言葉でハッテという、樹木の幹から幹へ、竹や木の棒を物干竿のような工合に幾段も結びつけて、稲を懸け
て干す、そして稲の高い屏風を立てたように見えるのだが――島村達が通る路ばたにも、百姓がそのハッテを作っ
ていた。
山袴の腰をひょいと捻って、娘が稲の束を投げ上げると、高くのぼった男が器用に受け取って、扱くように振り分け
ては、竿に懸けていった。物慣れて無心の動きが調子よく繰り返されていた。
ハッテの垂れ穂を、貴いものの目方を計るように駒子は掌に受けて、ゆさゆさ揺り上げながら、
「いい実り、触っても気持のいい稲だわ。去年とは大変なちがいだわ。」と、稲の感触を楽しむように目を細めた。そ
の上の空低く群雀が乱れ飛んだ。
「田植人夫賃金協定。九十銭、一日賃金賄附。女人夫は右の六分。」というような古い貼紙が道端の壁に残っていた。
葉子の家にもハッテがあった。街道から少し凹んだ畑の奥に建っているのだが、その庭の左手、隣家の白壁沿い
の柿の並木に、高いハッテが組んであった。そしてまた畑と庭との境にも、つまり柿の木のハッテとは直角に、やはり
ハッテで、その稲の下をくぐる入口が片端に出来ていた。莚ならぬ稲で、ちょうど小屋掛けしたようである。畑は闌れ
たダリヤと薔薇の手前に里芋が逞しい葉を拡げていた。緋鯉の蓮池はハッテの向うで見えない。
去年駒子がいたあの蚕の部屋の窓も隠れていた。
葉子は怒ったように頭を下げると、稲穂の入口を帰って行った。
「この家に一人でいるのかい。」と、島村はその少し前屈みの後姿を見送っていたが、
「そうでもないでしょう。」と、駒子は突慳貪に言った。
「ああ厭だ。もう髪を結うの止めた。あんたがよけいなこと言うから、あの人の墓参りを邪魔しちゃった。」
「墓で会いたくないって、君の意地っ張りだろう。」
「あんたが私の気持を分らないのよ。後で暇があったら、髪を洗いに行きますわ。晩くなるかもしれないけれど、きっと
行くわ。」
そして夜なかの三時であった。
障子を押し飛ばすようにあける音で島村が目を覚ますと、胸の上へばったり駒子が長く倒れて、
「来ると言ったら、来たでしょ。ねえ、来ると言ったら来たでしょ。」と、腹まで波打つ荒い息をした。
「ひどく酔ってんだね。」
「ねえ、来ると言ったら来たでしょ。」
「ああ、来たよ。」
「ここへ来る道、見えん。見えん。ふう、苦しい。」
「それでよく坂が登れたね。」
「知らん。もう知らん。」と、駒子はうんと仰反って転がるものだから、島村は重苦しくなって起き上ろうとしたが、不意
に起されたことゆえふらついて、また倒れると、頭が熱いものに載って驚いた。
「火みたいじゃないか、馬鹿だね。」
「そう? 火の枕、火傷するよ。」
「ほんとだ。」と、目を閉じているとその熱が頭に沁み渡って、島村はじかに生きている思いがするのだった。駒子の
激しい呼吸につれて、現実というものが伝わって来た。それはなつかしい悔恨に似て、ただもう安らかになにかの復
讐を待つ心のようであった。
「来ると言ったら来たでしょ。」と、駒子はそれを一心に繰り返して、
「これで来たから、帰る。髪を洗うのよ。」
そして這い上ると、水をごくごく飲んだ。
「そんなんで帰れやしないよ。」
「帰る。連れがあんのよ。お湯道具、どこへ行った。」
島村が立ち上って電燈をつけると、駒子は両手で顔を隠して畳に突っ伏してしまった。
「いやよ。」
元禄袖の派手なめりんすの袷に黒襟のかかった寝間着で伊達巻をしめていた。それで襦袢の襟が見えず、素足
の縁まで酔いが出て、隠れるように身を縮めているのは変に可愛く見えた。
湯道具を投げ出したとみえ、石鹸や櫛が散らばっていた。
「切ってよ、鋏持って来たから。」
「なにを切るんだ。」
「これをね。」と、駒子は髪のうしろへ手をやって、
「うちで元結を切ろうとしたんだけれど、手が言うことをきかないのよ。ここへ寄って切って貰おうと思って。」
島村は女の髪を掻き分けて元結を切った。ひとところが切れる度に、駒子は髪を振り落しながら少し落ちついて、
「今幾時頃なの。」
「もう三時だよ。」
「あら、そんな? 地髪を切っちゃ駄目よ。」
「ずいぶん幾つも縛ってるんだね。」
彼の掴み取る髢の根の方がむっと温かった。
「もう三時なの? 座敷から帰って、倒れたまま眠ったらしいわ。お友達と約束しといたから誘ってくれたのよ。どこへ
行ったかと思ってるわ。」
「待ってるのか。」
「共同湯に入ってるわ、三人。六座敷あったんだけれど四座敷しか廻れなかった。来週は紅葉でいそがしいわ。どう
もありがとう。」と、解けた髪を梳きながら顔を上げると、眩しそうに含み笑いをして、
「知らないわ、ふふふ、可笑しいな。」
そして術なげに髢を拾った。
「お友達に悪いから行くわね。帰りにはもう寄らないわ。」
「道が見えるか。」
「見える。」
しかし裾を踏んでよろめいた。
朝の七時と夜なかの三時と、一日に二度も異常な時間に暇を盗んで来たのだと思うと、島村はただならぬものが感
じられた。
紅葉を門松のように、宿の番頭達が門口へ飾りつけていた。観楓客の歓迎である。
生意気な口調で指図しているのは、渡り鳥でさと自ら嘲るように言う臨時雇いの番頭だった。新緑から紅葉までの
間を、ここらあたりの山の湯で働き、冬は熱海や長岡などの伊豆の温泉場へ稼ぎに行く、そういう男の一人である。
毎年同じ宿に働くとは限らない。彼は伊豆の繁華な温泉場の経験を振り廻して、ここらの客扱いの陰口ばかりきいて
いた。揉手しながらしつっこく客を引くが、いかにも誠意のない物乞いじみた人相が現われていた。
「旦那、あけびの実を御存じですか。召し上るなら取って参りますよ。」と、散歩帰りの島村に言って、彼はその実を蔓
のまま紅葉の枝に結びつけた。
紅葉は山から伐って来たらしく軒端につかえる高さ、玄関がぱっと明るむように色あざやかなくれないで、一つ一つ
の葉も驚くばかり大きかった。
島村はあけびの冷たい実を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、葉子が炉端に坐っていた。
おかみさんが銅壺で燗の番をしている。葉子はそれと向い合って、なにか言われる度にはっきりうなずいていた。
山袴も羽織もなしに、洗い張りしたばかりのような銘仙を着ていた。
「手伝いの人?」と、島村がなにげなく番頭に訊くと、
「はあ、お蔭さまで、人手が足りないもんでございますから。」
「君と同じだね。」
「へえ。しかし、村の娘で、なかなか一風変っておりますな。」
葉子は勝手働きをしているとみえ、今まで客座敷へは出ないようだった。客がたてこむと、炊事場の女中達の声も
大きくなるのだが、葉子のあの美しい声は聞えなかった。島村の部屋を受け持つ女中の話では、葉子は寝る前に湯
槽のなかで歌を歌う癖があるということだったが、彼はそれも聞かなかった。
しかし葉子がこの家にいるのだと思うと、島村は駒子を呼ぶことにもなぜかこだわりを感じた。駒子の愛情は彼に
向けられたものであるにもかかわらず、それを美しい徒労であるかのように思う彼自身の虚しさがあって、けれども
反ってそれにつれて、駒子の生きようとしている命が裸の肌のように触れて来もするのだった。彼は駒子を哀れみな
がら、自らを哀れんだ。そのようなありさまを無心に刺し透す光に似た目が、葉子にありそうな気がして、島村はこの
女にも惹かれるのだった。
島村が呼ばなくとも駒子は無論しげしげと来た。
渓流の奥の紅葉を見に行くので、彼は駒子の家の前を通ったことがあったが、その時彼女は車の音を聞きつけて、
今のは島村にちがいないと表へ飛び出てみたのに、彼はうしろを振り返りもしなかったのは薄情者だと言ったほどだ
から、彼女は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄らぬことはなかった。湯に行くにも道寄りした。宴会があると
一時間も早く来て、女中が呼ぶまで彼のところで遊んでいた。座敷をよく抜け出して来ては、鏡台で顔を直して、
「これから働きに行くの、商売気があるから。さあ、商売、商売。」と、立って行った。
撥入れだとか、羽織だとか、なにかしら持って来たものを、彼の部屋へ置いて帰りたがった。
「昨夜帰ったら、お湯が沸いてないの。お勝手をごそごそやって、朝の味噌汁の残りを掛けて、梅干で食べたのよ。
冷たあい。今朝うちで起してくれないのよ。目が覚めてみたら十時半、七時に起きて来ようと思ってたのに、駄目に
なったわ。」
そんなことや、どの宿からどの宿へ行ったという、座敷の模様をあれこれと報告するのだった。
「また来るわね。」と、水を飲んで立ち上りながら、
「もう来んかもしれないわ。だって三十人のところへ三人だもの、忙しくて抜けられないの。」
しかし、また間もなく来て、
「つらいわ。三十人の相手に三人しかいないの。それが一番年寄と一番若い子だから、私がつらいわ。けちな客、
きっとなんとか旅行会だわ。三十人なら少くとも六人はいなければね。飲んでおどかして来るわね。」
毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の
趣きは、反って風情を艶めかすばかりだった。
「廊下が鳴るので恥かしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。
こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった。」
「土地が狭いから困るだろう。」
「もうみんな知ってるわよ。」
「そりゃいかんね。」
「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね。」と言ったが、直ぐ顔を上げて微笑むと、
「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから。」
その素直な実感の籠った調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。
「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない。」
なにげない口振りなのだが、島村は女の響きを聞いた。
「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから。」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向
いた。
襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだか悲しく盛り上って、毛織
物じみて見え、また動物じみて見えた。
「今の世のなかではね。」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。
しかし駒子は単純に、
「いつだってそうよ。」
そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。
「あんたそれを知らないの?」
背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。
ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を、島村は翻訳してい
るのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本
であることが、反って彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた楽しみ
なのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生まれるのかも知れぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらさらな
い。
彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。
秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日毎にあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう
起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であっ
たけれども、近づいて見ると脚や触角を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳は
たいへん広いもののように眺められた。
島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。
窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて
来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。
その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。
国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。
「今日は来られないわよ、多分。地の人の宴会だから。」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広
間に太鼓が入って女の金切声も聞えて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、
「御免下さい、御免下さい。」と、葉子が呼んでいた。
「あの、駒子ちゃんがこれよこしました。」
葉子は立ったまま郵便配達のような恰好に手を突き出したが、あわてて膝を突いた。島村がその結び文を拡げて
いると、葉子はもういなくなった。なにを言う間もなかった。
「今とっても朗らかに騒いでます酒のんで。」と、懐紙に酔った字で書いてあるだけだった。
しかし十分と経たぬうちに、駒子が乱れた足音で入って来て、
「今あの子がなにか持って来た?」
「来たよ。」
「そう?」と、上機嫌に片目を細めながら、
「ふう、いい気持。お酒を註文しに行く、そう言って、そうっと抜けて来た。番頭さんに見つかって叱られた。お酒はい
い、叱られても、足音が気にならん。ああ、いやだわ。ここへ来ると、急に酔いが出る。これから働きに行くの。」
「指の先までいい色だよ。」
「さあ、商売。あの子なんて言った? 恐ろしいやきもち焼きなの、知ってる?」
「誰が?」
「殺されちゃいますよ。」
「あの娘さんも手伝ってるんだね。」
「お銚子を運んで来て、廊下の蔭に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいう目が好きなん
でしょう。」
「あさましいありさまだと思って見てたんだよ。」
「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水頂戴。どっちがあさましいか、女は口説
き落してみないことには、分らないわよ。私酔ってる?」と、倒れるように鏡台の両端をつかまえて覗きこむと、しゃん
と裾を捌いて出て行った。
やがて宴会も終ったらしく、急にひっそりして、瀬戸物の音が遠く聞えたりするので、駒子も客に連れられて別の宿
の二次会へ廻ったのかと思っていると、葉子がまた駒子の結び文を持って来た。
「山風館やめにしましたこれから梅の間帰りによりますおやすみ」
島村は少し恥かしそうに苦笑して、
「どうもありがとう。手伝いに来てるの?」
「ええ。」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。
これまで幾度も見かける度毎に、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごともなくこうして彼の前に坐っ
ているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の真中にいるという風に見えるの
だった。
「いそがしそうだね。」
「ええ。でも、私はなんにも出来ません。」
「君にはずいぶん度々会ったな。初めはあの人を介抱して帰る汽車のなかで、駅長に弟さんのことを頼んでたの、覚
えてる?」
「ええ。」
「寝る前にお湯のなかで歌を歌うんだって?」
「あら、お行儀の悪い、いやだわ。」と、その声が驚くほど美しかった。
「君のことはなにもかも知ってるような気がするね。」
「そうですか。駒ちゃんにお聞きになったんですか。」
「あの人はしゃべりゃしない。君の話をするのをいやがるくらいだよ。」
「そうですか。」と、葉子はそっと横を向いて、
「駒ちゃんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい。」
早口に言う、その声が終りの方は微かに顫えた。
「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ。」
葉子は今に体まで顫えて来そうに見えた。危険な輝きが迫って来るような顔から島村は目をそらせて笑いながら、
「早く東京へ帰った方がいいかもしれないんだけれどもね。」
「私も東京へ行きますわ。」
「いつ?」
「いつでもいいんですの。」
「それじゃ、帰る時連れて行ってあげようか。」
「ええ、連れて帰って下さい。」と、こともなげに、しかし真剣な声で言うので、島村は驚いた。
「君のうちの人がよければね。」
「うちの人って、鉄道へ出ている弟一人ですから、私がきめちゃっていいんです。」
「東京になんかあてがあるの?」
「いいえ。」
「あの人に相談した?」
「駒ちゃんですか。駒ちゃんは憎いから言わないんです。」
そう言って、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてか反って、
駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。為体の知れない娘と駈落ちのように帰ってしまうことは、駒子
への激しい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしら刑罰のようでもあった。
「君はそんな、男の人と行ってこわくはないのかい。」
「どうしてですか。」
「君が東京でさしずめ落ちつく先きとか、なにをしたいとかいうことくらいきまってないと危いじゃないか。」
「女一人くらいどうにでもなりますわ。」と、葉子は言葉尻が美しく吊り上るように言って、島村を見つめたまま、
「女中に使っていただけませんの?」
「なあんだ、女中にか?」
「女中はいやなんです。」
「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ。」
「看護婦です。」
「病院か学校に入ってたの。」
「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ。」
島村はまた汽車のなかで師匠の息子を介抱していた葉子の姿を思い出して、あの真剣さのうちには葉子の志望も
現われていたのかと微笑まれた。
「それじゃ今度も看護婦の勉強がしたいんだね。」
「看護婦にはもうなりません。」
「そんな根なしじゃいけないね。」
「あら、根なんて、いやだわ。」と、葉子は弾き返すように笑った。
その笑い声も悲しいほど高く澄んでいるので、白痴じみては聞えなかった。しかし島村の心の殻を空しく叩いて消え
てゆく。
「なにがおかしいんだ。」
「だって、私は一人の人しか看病しないんです。」
「え?」
「もう出来ませんの。」
「そうか。」と、島村はまた不意打ちを食わされて静かに言った。
「毎日君は蕎麦畑の下の墓にばかり参ってるそうだね。」
「ええ。」
「一生のうちに、外の病人を世話することも、外の人の墓に参ることも、もうないと思ってるのか?」
「ないわ。」
「それに墓を離れて、よく東京へ行けるね?」
「あら、すみません。連れて行って下さい。」
「君は恐ろしいやきもち焼きだって、駒子が言ってたよ。あの人は駒子のいいなずけじゃなかったの?」
「行男さんの? 嘘、嘘ですよ。」
「駒子が憎いって、どういうわけだ。」
「駒ちゃん?」と、そこにいる人を呼ぶかのように言って、葉子は島村をきらきら睨んだ。
「駒ちゃんをよくしてあげて下さい。」
「僕はなんにもしてやれないんだよ。」
葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちていた小さい蛾を掴んで泣きじゃくりながら、
「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです。」と、ふっと部屋を出て行ってしまった。
島村は寒気がした。
葉子の殺した蛾を捨てようとして窓をあけると、酔った駒子が客を追いつめるような中腰になって拳を打っているの
が見えた。空は曇っていた。島村は内湯に行った。
隣りの女湯へ葉子が宿の子をつれて入って来た。
着物を脱がせたり、洗ってやったりするのが、いかにも親切なものいいで、初々しい母の甘い声を聞くように好もし
かった。
そしてあの声で歌い出した。
…………
…………
裏へ出て見たれば
梨の樹が三本
杉の樹が三本
みんなで六本
下から烏が
巣をかける
上から雀が
巣をかける
森の中の螽・
どういうて囀るや
お杉友達墓参り
墓参り一丁一丁一丁や
手鞠歌の幼い早口で生き生きとはずんだ調子は、ついさっきの葉子など夢かと島村に思わせた。
葉子が絶え間なく子供にしゃべり立てて上ってからも、その声が笛の音のようにまだそこらに残っていそうで、黒光
りに古びた玄関の板敷きに片寄せてある、桐の三味線箱の秋の夜更らしい静まりにも、島村はなんとなく心惹かれ
て、持主の芸者の名を読んでいると、食器を洗う音の方から駒子が来た。
「なに見てんの?」
「この人泊りかい?」
「誰。ああ、これ? 馬鹿ねえ、あんた、そんなものいちいち持って歩けやしないじゃないの。幾日も置きっ放しにしとく
ことがあるのよ。」と笑ったはずみに、苦しい息を吐きながら目をつぶると、褄を放して島村によろけかかった。
「ねえ、送って頂戴。」
「帰ることないじゃないか。」
「だめ、だめ、帰る。地の人の宴会で、みんな二次会へついて行ったのに、私だけ残ったのよ。ここにお座敷があった
からいいようなものの、お友達が帰りにお湯へでも誘ってくれて、私が家にいなかったら、あんまりだわ。」
したたか酔ってるのに、駒子は険しい坂をしゃんしゃん歩いた。
「あの子をあんた泣かしたのね。」
「そう言えば、確かに少し気ちがいじみてるね。」
「人のことをそんな風に見て、面白いの?」
「君が言ったんじゃないか、気ちがいになりそうだって、君に言われたのを思い出すと、くやしくて泣き出したらしかっ
たよ。」
「それならいいわ。」
「ものの十分もたたぬうちに、お湯に入っていい声で歌ってるんだ。」
「お湯のなかで歌を歌うのは、あの子の癖なのよ。」
「君のことをよくしてあげて下さいって、真剣に頼むんだ。」
「馬鹿ねえ。だけど、そんなこと、あなた私に吹聴なさらなくってもいいじゃないの。」
「吹聴? 君はあの娘のこととなると、どうしてだか知らないが妙に意地を張るんだね。」
「あんたあの子が欲しいの?」
「それ、そういうことを言う。」
「じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あん
ただって仮にあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ。」と、駒子は島
村の肩に手をかけてしなだれて来たが、突然首を振ると、
「ちがう。あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持って
行っちゃってくれない?」
「いい加減にしろよ。」
「酔って管を巻いてると思ってらっしゃるわ? あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで
身を持ち崩すの。しいんといい気持。」
「おい。」
「ほっといて頂戴。」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶっつかると、そこは駒子の家だった。
「もう帰らないと思ってるんだ。」
「ううん、あくのよ。」
枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。
「寄って行って。」
「だって今頃。」
「もう家の人は寝ちゃってますわ。」
島村はさすがにしりごみした。
「それじゃ私が送って行きます。」
「いいよもう。」
「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの。」
勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固
い蒲団を並べて、主人夫婦と十七八の娘を頭に五六人の子供が薄茶けた明りの下に、思い思いの方に顔を向けて
眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠っていた。
島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたぴししめて、
足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫え
た。
「ここで待ってて。二階の明りを、つけますから。」
「いいよ。」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。
百姓家らしい古畳の二階は四間で、
「私一人だから広いことは広いのよ。」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に
積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家の
ようであった。
駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座蒲団を島村にすすめて、
「まあ、真赤。」と、鏡を覗いた。
「こんなに酔ってたのかしら?」
そして箪笥の上の方を捜しながら、
「これ、日記。」
「ずいぶんあるんだね。」
その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。
「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。その
かわりたいていのものは揃ってるわ。」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。
「あら、燐寸がないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ。」
「いいよ。裁縫してたの?」
「ええ。紅葉のお客さんで、ちっとも捗らないの。」と、駒子は振り向いて、箪笥の前の縫物を片寄せた。
駒子の東京暮しの名残であろう、柾目のみごとな箪笥や朱塗の贅沢な裁縫箱は、師匠の家の古い紙箱のような屋
根裏にいた時と同じだけれども、この荒れた二階では無慚に見えた。
電燈から細い紐が枕の上へ下っていた。
「本を読んで寝る時に、これを引っぱって消すのよ。」と、駒子はその紐を弄びながら、しかし家庭の女じみた風にお
となしく坐って、なにか羞んでいた。
「狐のお嫁入りみたいだね。」
「ほんとうですわ。」
「この部屋で四年暮すのかい。」
「でも、もう半年すんだわ。直ぐよ。」
下の人達の寝息が聞えて来るようだし、話の継穂がないので、島村はそそくさと立ち上った。
駒子は戸をしめながら、首を突き出して空を仰ぐと、
「雪催いね。もう紅葉もおしまいになるわ。」と、また表に出て、
「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る。」
「じゃあ、お休み。」
「送って行くわ。宿の玄関までよ。」
ところが島村といっしょに宿へ入って来て、
「お休みなさいね。」と、どこかへ消えて行ったのに、しばらくするとコップに二杯なみなみと冷酒をついで、彼の部屋
へ入って来るなり激しく言った。
「さあ、飲みなさい、飲むのよ。」
「宿で寝ちゃってるのに、どこから持って来た。」
「ううん、あるとこは分ってる。」
駒子は樽から出す時にも飲んで来たとみえ、さっきの酔いが戻ったらしく眼を細めてコップから酒のこぼれるのを見
据えながら、
「でも、暗がりでひっかけるとおいしくないわ。」
突きつけられたコップの冷酒を島村は無造作に飲んだ。
こればかりの酒で酔うはずはないのに、表を歩いて体が冷えていたせいか、急に胸が悪くなって頭へ来た。顔の青
ざめるのが自分に分るようで、目をつぶって横たわると、駒子はあわてて介抱し出したが、やがて島村は女の熱いか
らだにすっかり幼く安心してしまった。
駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首
を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。
島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね。」
「どうして? どこがいいの。」
「いい子だよ。」
「そう? いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりして頂戴。」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ
切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。
そして一人で含み笑いして、
「よくないわ。つらいから帰って頂戴。もう着る着物がないの。あんたのとこへ来る度に、お座敷着を変えたいけれど、
すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」
島村は言葉も出なかった。
「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、
「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやあな
気がした。」
島村はうなずいた。
「あら。それを私今まで黙ってたの、分る? 女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの。」
「いいよ。」
「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温く島村に伝わっ
て来た。
「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言って頂戴。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青ざめると、涙
をぽろぽろ落した。
「くやしい、ああっ、くやしい。」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。
島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。
「悲しいわ。」
駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。
そうして泣きくたびれたか、ぷすりぷすりと銀の簪を畳に突き刺していたが、不意に部屋を出て行ってしまった。
島村は後を追うことが出来なかった。駒子に言われてみれば、十分に心疚しいものがあった。
しかし直ぐに駒子は足音を忍ばせて戻ったらしく、障子の外から上ずった声で呼んだ。
「ねえ、お湯にいらっしゃいません?」
「ああ。」
「御免なさいね。私考え直して来たの。」
廊下に隠れて立ったまま、部屋へ入って来そうもないので、島村が手拭を持って出て行くと、駒子は目を合わせる
のを避けて、少しうつ向きながら先きに立った。罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿であったが、湯で体が温ま
る頃から変にいたいたしいほどはしゃぎ出して、眠るどころでなかった。
その次の朝、島村は謡の声で目が覚めた。
しばらく静かに謡を聞いていると、駒子が鏡台の前から振り返って、にっと微笑みながら、
「梅の間のお客さま。昨夜宴会の後で呼ばれたでしょう。」
「謡の会の団体旅行かね。」
「ええ。」
「雪だろう?」
「ええ。」と、駒子は立ち上って、さっと障子をあけて見せた。
「もう紅葉もおしまいね。」
窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。
島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。
謡の人々は鼓も打っていた。
島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらが尚大きく
浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。
駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とは到底思えな
いところに、反って逆らい難い悲しみがあるかと見えた。
紅葉の銹色が日毎に暗くなっていた遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。
薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくっきりと目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った。
雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上に晒す。績み始めてから織り終るまで、すべては
雪のなかであった。雪ありて縮あり、雪は縮の親というべしと、昔の人も本に書いている。
村里の女達の長い雪ごもりのあいだの手仕事、この雪国の麻の縮は島村も古着屋であさって夏衣にしていたもの
だ。踊の方の縁故から能衣裳の古物などを扱う店も知っているので、筋のいい縮が出たらいつでも見せてほしいと
頼んであるほど、この縮を好んで、一重の襦袢にもした。
雪がこいの簾をあけて、雪解の春のころ、昔は縮の初市が立ったという。はるばる縮を買いに来る三都の呉服問屋
の定宿さえあったし、娘達が半年の丹精で織り上げたのもこの初市のためだから、遠近の村里の男女が寄り集まっ
て来て、見世物や物売の店も並び、町の祭のように賑わったという。縮には織子の名と所とを書いた紙札をつけて、
その出来栄えを一番二番という風に品定めした。嫁選びにもなった。子供のうちに織り習って、そうして十五六から二
十四五までの女の若さでなければ、品のいい縮は出来なかった。年を取っては機面のつやが失われた。娘達は指
折りの織子の数に入ろうとしてわざを磨いただろうし、旧暦の十月から糸を績み始めて明る年の二月半ばに晒し終る
という風に、ほかにすることもない雪ごもりの月日の手仕事だから念を入れ、製品には愛着もこもっただろう。
島村が着る縮のうちにも、明治の初めから江戸の末の娘が織ったものはあるかもしれなかった。
自分の縮を島村は今でも「雪晒し」に出す。誰が肌につけたかしれない古着を、毎年産地へ晒しに送るなど厄介だ
けれども、昔の娘の雪ごもりの丹精を思うと、やはりその織子の土地でほんとうの晒し方をしてやりたいのだった。深
い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪か布かが紅に染まるありさまを考えるだけでも、夏のよごれが取れそうだ
し、わが身をさらされるように気持よかった。もっとも東京の古着屋が扱ってくれるので、昔通りの晒し方が今に伝
わっているのかどうか、島村は知らない。
晒屋は昔からあった。織子が銘々の家で晒すということは少く、たいがい晒屋に出した。白縮は織りおろしてから晒
し、色のある縮は糸につくったのを拐にかけて晒す。白縮は雪へじかにのばして晒す。旧の一月から二月にかけて
晒すので、田や畑を埋めつくした雪の上を晒場にすることもあるという。
布にしろ糸にしろ、夜通し灰汁に浸しておいたのを翌る朝幾度も水で洗っては絞り上げて晒す。これを幾日も繰り
返すのだった。そうして白縮をいよいよ晒し終ろうとするところへ朝日が出てあかあかとさす景色はたとえるものがな
く、暖国の人に見せたいと、昔の人も書いている。また縮を晒し終るということは雪国が春の近いしらせであったろう。
縮の産地はこの温泉場に近い。山峡の少しずつひらけてゆく川下の野がそれで、島村の部屋からも見えていそう
だった。昔縮の市が立ったという町にはみな汽車の駅が出来て、今も機業地として知られている。
しかし島村は縮を着る真夏にも縮を織る真冬にも、この温泉場に来たことがないので、駒子に縮の話をしてみる折
はなかった。
ところが葉子が湯殿で歌っていた歌を聞いて、この娘も昔生れていたら、糸車や機にかかって、あんな風に歌った
のかもしれないと、ふと思われた。葉子の歌はいかにもそういう声だった。
毛よりも細い麻糸は天然の雪の湿気がないとあつかいにくく、陰冷の季節がよいのだそうで、寒中に織った麻が暑
中に着て肌に涼しいのは陰陽の自然だという言い方を昔の人はしている。島村にまつわりついて来る駒子にも、な
にか根の涼しさがあるようだった。そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にあわれだった。
けれどもこんな愛着は一枚の縮ほどの確かな形を残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にし
ても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い馴れは縮
ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮んで来
たりして、島村ははっとあたりを見まわした。疲れているのかと思った。
妻子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげ
しげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生
きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。駒子
が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなに
も駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつ
むように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。
こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来られないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢により
かかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が
器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少
し向うに小さい鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴り
しきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、最早こ
こを去らねばならぬと心立った。
そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。
しかし川下に幾つもある町のどれへ行けばよいのか、島村はわからなかった。現在機業地に発展している大きい
町が見たいというのではないので、島村はむしろさびしそうな駅に下りた。しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。
家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、
この国では昔から雁木というらしく、雪の深いあいだの往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いて
いる。
隣りから隣りへ連なっているから、屋根の雪は道の真中へおろすより捨場がない。実際は大屋根から道の雪の堤
へ投げ上げるのだ。向う側へ渡るのには雪の堤をところどころくりぬいてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方では
いうらしい。
同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだっ
た。もの珍らしさにちょっとそのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちていたりした。
先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。
雪の底で手仕事に根をつめた織子達の暮しは、その製作品の縮のように爽かで明るいものではなかった。そう思
われるに十分な古町の印象だった。縮のことを書いた昔の本にも唐の秦韜玉の詩などが引かれているが、機織女を
抱えてまで織らせる家がなかったのは、一反の縮を織るのにずいぶん手間がかかって、銭勘定では合わないからだ
という。
そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅
沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこか
で人を鞭打つものだろうか。島村は雁木の下から道へ出た。
宿場の街道筋らしく真直に長い町通だった。温泉村から続いている古い街道だろう。板葺きの屋根の算木や添石
も温泉町と変りがなかった。
庇の柱が薄い影を落していた。いつのまにか夕暮近くだった。
なにも見るものがないので、島村はまた汽車に乗って、もう一つの町に下りてみた。前の町と似たものだった。やは
りただぶらぶら歩いて、寒さしのぎにうどんを一杯すすっただけだった。
うどん屋は川岸で、これも温泉場から流れて来る川だろう。尼僧が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くの
が見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠を背負ったのもあって、托鉢の帰りのようだった。烏が塒に急ぐ感じだった。
「尼さんがだいぶ通るね?」と、島村はうどん屋の女にたずねてみた。
「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう。」
橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。
この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高い山が白くなる。こ
れを岳廻りという。また海のあるところは海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りとい
う。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。
島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一
人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだ
けで、その遠鳴が耳の底を通るようだった。
「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの。」
「さあ。大勢でしょうよ。」
「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうか
な。」
物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。
島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。
足が冷えた。
なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、
目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が三四人立話し
ていた。
駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。
車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はなんとなく徐行したらしい。
ふと島村は駒子と逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、
星明りに思いがけなく遠くまで見えた。
車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに
坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。
飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温いものに寄り添われたようで、駒子のしている
ことに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が辷って長襦袢の色が厚いガラス越
しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。
駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、
「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。
「危いじゃないか。無茶をするね。」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。
駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車はもう止まっているのだった。山の裾に来ていた。
「ねえ、どこへいらしたの?」
「うん、まあ。」
「どこ?」
「どこってこともないが。」
駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村に珍らしいもののように見えたりした。
運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、
「おりましょう。」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、
「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れて行かなかったの?」
「そうだったね。」
「なによ? おかしなひと。」
駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。
「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時前だったわね?」
「うん。」
「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」
「ええ?」
「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」
島村はおどろいた。
「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」
「知らなかったね。」
「そうれごらんなさい。」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。
「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなって来て、いやよ。」
突然擦半鐘が鳴り出した。
二人は振り向くなり、
「火事、火事よ!」
「火事だ。」
火の手が下の村の真中にあがっていた。
駒子はなにか二声三声叫んで島村の手をつかんだ。
黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。
「どこだ、君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか。」
「ちがう。」
「どのへんだ。」
「もっと上よ。停車場寄りよ。」
炎が屋根を抜いて立ちあがった。
「あら、繭倉だわ。繭倉だわ。あら、あら、繭倉が焼けてるのよ。」と、駒子は言い続けて島村の肩に頬を押しつけた。
「繭倉よ、繭倉よ。」
火は燃えさかって来るばかりだが、高みから大きい星空の下に見下すと、おもちゃの火事のように静かだった。そ
のくせすさまじい炎の音が聞えそうな恐ろしさは伝わってきた。島村は駒子を抱いた。
「こわいことないじゃないか。」
「いや、いや、いや。」と、駒子はかぶりを振って泣き出した。その顔が島村の掌にいつもより小さく感じられた。固い
こめかみが顫えていた。
火を見て泣き出したのだが、なにを泣くのかと島村はいぶかりもしないで抱いていた。
駒子は不意に泣きやむと顔を離して、
「あら、そうだった、繭倉に映画があるのよ、今夜だわ。人がいっぱいはいってるのよ、あんた……。」
「そりゃあ大変だ。」
「怪我人が出てよ。焼け死ぬわ。」
二人はあわてて石段を駈け登った。上の方で騒ぐ声が聞えるからだ。見上げると高い宿屋の二階三階も、たいて
いの部屋が障子をあけた明りの廊下に人が出て火事を見ていた。庭のはずれに並んだ菊の末枯が宿の燈か星明り
かで輪郭を浮べ、ふと火事が映っていると思わせたが、その菊のうしろにも人が立っていた。二人の顔の上へ宿の
番頭などが三四人ころぶように下りて来た。駒子は声を張りあげて、
「あんた、繭倉あ?」
「繭倉だあ。」
「怪我人は? 怪我人はないの?」
「どんどん助け出してるんだあ。活動のフィルムから、ぼうんといっぺんに燃えついて、火の廻りが早いや。電話で聞
いたんだ。あれ見ろい。」と、番頭は出会い頭に片腕を振り上げて行った。
「子供なんざあ、二階からぼんぼん投げおろしてるんだってさ。」
「まあ。どうしよう。」と、駒子は番頭を追うように石段を下りた。後から下りて来る人々が駈け抜けて行った。駒子も誘
われて走り出していた。島村も追っかけた。
石段の下では火事が人家にかくれて焔の頭しか見えないところへ、擦半鐘が鳴り渡るので、なお不安が増して走っ
た。
「雪が凍みてるから気をつけてね。滑る。」と、駒子は島村を振り向いたが、その拍子に立ち止まって、
「でも、そうよ。あんたはいいのよ、いらっしゃらなくて。私は村の人が心配よ。」
言われてみればそうだった。島村は拍子抜けがすると足もとに線路が見えた。踏切の前まで来ていた。
「天の河。きれいねえ。」
駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。
ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆくようだった。天の河の明る
さが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさで
あったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は
自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりで
なく、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで
行った。
「おうい。おうい。」
島村は駒子を呼んだ。
「ほうい。来てちょうだあい。」
天の河が垂れさがる暗い山の方へ駒子は走っていた。
褄を取っているらしく、その腕を振るたびに赤い裾が多く出たり縮まったりした。星明りの雪の上に赤い色だとわ
かった。
島村は一散に追っかけた。
駒子は足をゆるめると、褄をはなして島村の手を取った。
「行くの、あんたも?」
「うん。」
「物好きねえ。」と、雪の上に落ちている裾をつまみ上げて、
「私が笑われるから、帰って頂戴。」
「うん、そこまで。」
「悪いじゃないの? 火事場まであんたを連れて行くなんて、村の人に悪いわ。」
島村はうなずいて止まったのに、駒子が島村の袖に軽くつかまったままゆっくり歩き出した。
「どこかで待ってて頂戴。直ぐ戻って来ます。どこがいい。」
「どこでもいいよ。」
「そうね、もう少し向う。」と、駒子は島村の顔をのぞきこんだが、急にかぶりを振って、
「いやだ、もう。」
どんと駒子は体をぶっつけた。島村は一足よろけた。道端の薄雪のなかに葱の列が立っていた。
「なさけないわ。」
そして駒子は早口に挑みかかった。
「ねえ、あんた、私をいい女だって言ったわね。行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」
駒子が簪をぷすりぷすり畳に突き刺していたのを、島村は思い出した。
「泣いたわ。うちへ帰ってからも泣いたわ。あんたと離れるのこわいわ。だけどもう早く行っちゃいなさい。言われて泣
いたこと、私忘れないから。」
駒子の聞きちがえで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に絞めつけられるようだった
が、俄かに火事場の人声が聞えて来た。新しい火の手が火の子を噴き上げた。
「あら、また、あんなに燃えて、あんなに火が出たわ。」
二人はほっと救われたように走り出した。
駒子はよく走った。凍りついた雪を下駄で掠めて飛ぶかと見え、腕も前後に振るというよりも両脇に張った形だった。
胸のあたりに固く力をこめた形で、案外小柄だと島村は思った。小太りの島村は駒子の姿を見ながら走っているので、
なお早く苦しくなった。しかし、駒子も急に息切れして、島村によろけかかった。
「目玉が寒くて、涙が出るわ。」
頬がほてって目ばかり冷たい。島村も瞼が濡れた。瞬くと天の河が目に満ちた。島村はその涙が落ちそうなのをこ
らえて、
「毎晩、こんな天の河かい。」
「天の河? きれいね、毎晩じゃないでしょう。よく晴れてるわ。」
天の河は二人が走って来たうしろから前へ流れおりて、駒子の顔は天の河のなかで照らされるように見えた。
しかし、鼻の形も明らかでないし、脣の色も消えていた。空をあふれて横切る明りの層が、こんなに暗いのかと島村
は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの形
もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いのすることが不思議だった。
見上げていると天の河はまたこの大地を抱こうとしておりて来ると思える。
大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しい
んと冷える寂しさでありながら、なにか艶めかしい驚きでもあった。
「あんたが行ったら、私は真面目に暮すの。」と、駒子は言って歩き出すと、ゆるんだ髷に手をやった。五六歩行って
振り返った。
「どうしたの。いやよ。」
島村は立ったままでいた。
「そう? 待っててね。後でいっしょにお部屋へ行かせて。」
駒子はちょっと左手を上げてから走った。後姿が暗い山の底に吸われて行くようだった。天の河はその山波の線で
切れるところに裾をひらき、また逆にそこから花やかな大きさで天へひろがってゆくようだったから、山はなお暗く沈
んでいた。
島村が歩き出すと間もなく駒子の姿は街道の人家でかくれた。
「やっしょ、やっしょ、やっしょ。」と掛声が聞えて、ポンプをひいて行くのが街道に見えた。街道は後から後から人が
走っているらしい。島村も急いで街道に出た。二人が来た道は丁字形に街道へ突きあたるのだった。
またポンプが来た。島村はやり過して、その後について走った。
古い手押型の木のポンプだった。長い綱を先引きする一隊のほかに、ポンプのまわりも消防が取り巻いている、そ
れがおかしいほどポンプは小さかった。
そのポンプの来るのを、駒子も道端によけていた。島村をみつけていっしょに走った。ポンプをよけて道端に立った
人々が、ポンプに吸い寄せられてゆくように後を追った。今は二人も火事場へ駈けつける人の群に過ぎなかった。
「いらしたの? 物好きに。」
「うん。心細いポンプだね、明治前だ。」
「そうよ。ころばないでね。」
「滑るね。」
「そうよ、これから、地吹雪が一晩中荒れる時に、あんた一度、来てごらんなさい。来られないでしょう。雉や兎が、人
家のなかへ逃げ込んで来るわ。」などと駒子が言っても、消防の掛声や人々の足音に調子づいて、明るくはずんだ
声だった。島村も身が軽かった。
焔の音が聞えた。眼の前に火の手が立った。駒子は島村の肘をつかんだ。街道の低い黒い屋根が火明りでほうっ
と呼吸するように浮き出して、また薄れた。足もとの道にポンプの水が流れて来た。島村と駒子も人垣に自然立ちど
まった。火事の焦臭さに繭を煮るような臭いがまじっていた。
映画のフィルムから火が出たとか、見物の子供を二階からぽんぽん投げおろしたとか、怪我人はなかったとか、今
は村の繭も米も入っていなくてよかったとか、人々はあちこちで似たことを声高にしゃべり合っているのに、みな火に
向って無言でいるような、遠近の中心の抜けたような、一つの静かさが火事場を統一していた。火の音とポンプの音
とを聞いているという風だった。
時々、おくれて駈けつける村人があって、肉親の名を呼びまわる。答える者があって、喜んで叫び合う。それらの声
だけは生き生きと通った。擦半鐘はもう鳴りやんでいた。
人目もあると思って、島村は駒子からそっと離れると、ひとかたまりの子供のうしろに立った。火照りで子供達は後
ずさりした。足もとの雪も少しゆるんで来るらしかった。人垣の前の雪は火と水で溶け、乱れた足形にぬかるんでい
た。
そこは繭倉の横の畑地で、島村達といっしょに駈けつけた村人は大方そこにはいったのだった。
火は映写機を据えた入口の方から出たらしく、繭倉の半ばほどはもう屋根も壁も焼け落ちていたが、柱や梁などの
骨組はいぶりながら立っていた。板葺板壁に板の床だけでがらんどうだから、屋内にはそう煙も巻いていないし、
たっぷり水を浴びた屋根も燃えていそうには見えないのに、火移りは止まらぬらしく、思いがけないところから焔が出
た。三台のポンプの水があわてて消しに向うと、どっと火の子を噴き上げて黒煙が立った。
その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を
流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。屋根を外れたポンプの水先が揺れて、水煙となって薄白いのも、
天の河の光が映るかのようだった。
いつのまに寄って来たのか、駒子が島村の手を握った。島村は振り向いたが黙っていた。駒子は火の方を見たま
まで、少し上気した生真面目な顔に焔の呼吸がゆらめいていた。島村の胸に激しいものがこみ上げて来た。駒子の
髷はゆるんで、咽は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって、島村は指先がふるえた。島村の手も温まってい
たが、駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は別離が迫っているように感じた。
入口の方の柱かなにかからまた火が起きて燃え出し、ポンプの水が一筋消しに向うと、棟や梁がじゅうじゅう湯気
を立てて傾きかかった。
あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。
繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低い。その二階から落ち
たので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追えたほどの時間があったかのように見えた。人
形じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。一目で失心していると分った。下に落ちても音はしなかった。水の
かかった場所で、埃も立たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。
古い燃えかすの火に向って、ポンプが一台斜めに弓形の水を立てていたが、その前にふっと女の体が浮んだ。そ
ういう落ち方だった。女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。
非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗
さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の
体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。そうなりそうなけはいは見えたが、水
平のまま落ちた。
「ああっ。」
駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
落ちた女が葉子だと、島村も分ったのはいつだったろう。人垣があっと息を呑んだのも駒子がああっと叫んだのも、
実は同じ瞬間のようだった。葉子の腓が地上で痙攣したのも、同じ瞬間のようだった。
駒子の叫びは島村の身うちを貫いた。葉子の腓が痙攣するのといっしょに、島村の足先まで冷たい痙攣が走った。
なにかせつない苦痛と悲哀とに打たれて、動悸が激しかった。
葉子の痙攣は目にとまらぬほどかすかなもので、直ぐに止んだ。
その痙攣よりも先きに、島村は葉子の顔と赤い矢絣の着物を見ていた。葉子は仰向けに落ちた。片膝の少し上ま
で裾がまくれていた。地上にぶっつかっても、腓が痙攣しただけで、失心したままらしかった。島村はやはりなぜか死
は感じなかったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものを感じた。
葉子を落した二階桟敷から骨組の木が二三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美
しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。火明りが青白い顔の上を揺れ通った。
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともっ
た時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。なにかせ
つない苦痛と悲哀もここにあった。
駒子が島村の傍から飛び出していた。駒子が叫んで眼をおさえたのと、ほとんど同じ瞬間のようだった。人垣が
あっと息を呑んだままの時だった。
水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうと
した。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰か
を抱いているように見えた。
人垣が口々に声をあげて崩れ出し、どっと二人を取りかこんだ。
「どいて、どいて頂戴。」
駒子の叫びが島村に聞えた。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」
そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。
踏みこたえて目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。
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